西 耕生:「おなじもじなきうた」―古今倭歌集受容覚書―
新勅撰和歌集に収める「同じ文字なき歌」
鎌倉時代初期、藤原定家の撰になる新勅撰和歌集の最終巻第二十の巻軸歌の直前に、次のような一首が収められている。
【和歌】おなじもじなき歌とてよみ侍ける (二条太皇太后宮大弐)
あふことよいまはかぎりのたびなれやゆくすゑしらでむねぞもえける
〔新勅撰和歌集巻第二十・雑歌五・1373(岩波文庫)〕
初句に続く「今は限の度といふに旅を兼たり」(新勑撰集評注・坤)と掛詞を指摘する契沖の説に導かれながら、試みに現代語訳してみよう。
【試訳】(愛しい人とめぐり)会う事よ!
(それは)今生では最後の機会(つまり)後生への旅(立ち)なのかしら?
(恋は)なりゆきがわからないで(恋「ひ」焦がれる「火」で)胸が燃えるのだったし、
(あの世では)逢着する先がわからないで(愛執のため)胸が燃えるのだったしなあ。
詞書によれば、二条太皇太后宮令子に仕えた女房大弐が「同じ文字なき歌」として詠んだものという。「同じ文字なき歌」とは、後述するごとく、古今和歌集巻第十八雑歌下に収める「ものヽべのよしな(物部良名)」の作(歌番号955)に附された詞書を承けたもので、「一首の中に、同じ仮名文字を使わない歌」(和歌文学大系5二七四頁955脚注)の意である。新勅撰和歌集においては大弐詠の前後に、物名(もののな)・沓冠(くつかうぶり)・折句(をりく)など言葉遊びを巧んだ作が並んでいるところから、詠歌内容のみならず文字表記の技巧をも重く見た排列であったことがわかる(松田武夫『新釈古今和歌集』下巻七一三頁評、風間書房、参照)。
逢会と臨終とを詠み込んだこの一首は、歌句の上下で問答の体をとる。
上の句において、まず「あふことよ」(※1)と切り出される初句の主題に対して、第二・三句で「今は限りのたび」という一見すると意想外の様態へと展開させて「なれや(?)」と謎をかける。これを承けて下の句では、「行末知らで胸ぞ燃えける」――恋のなりゆきと冥途への旅立ちと、このどちらにも、行き着く先のわからぬまま愛執の「思ひ(=火)」に身を焦がし胸が燃えるという共通点があるのだった、と、謎を解いている。
無同文字歌の試作――モチーフとしての経句
このように自問自答する大弐の詠作について、のちの安土桃山時代の茶人のいわゆる〝一期一会〟の語を溯らせて評するのは、やはり時代錯誤のそしりを免れまい。むしろ、逢会と臨終とが共に今生に限られる出来事だという点に着目するなら、両者は、生と死という相対する取合せでなく、俗世に生まれた人にとって一連の相即する経験だということに気づかされよう。
ところで、大弐晩年の自撰と推定されている家集の詞書に「おなじもじなきうた、心みに」とあることについて、以下のような示唆深い注解が施されている。
【注解】家集詞書の「試みに」は、無同文字歌の試作か、死出の旅に臨む不安の思いの試詠か。
〔和歌文学大系6『新勅撰和歌集』三六五頁1373補注〕
すでに述べたように、出会いと別れとが人の一生において相即する経験だと捉える立場から、本稿は、例えば「合会有別離」(涅槃経巻第二)や「愛別離苦」(法華経譬喩品)などの経句を念頭に置いて大弐が「試みに」詠んだものと考える。即ち、経句を思い描いた「無同文字歌の試作」だと解くのである。「同じ文字なき歌」の先例として、物部良名が、大切に「思ふ人」の存在こそが出家の妨げにほかならぬ、と詠んでいたことも思い合せられる。
【和歌】おなしもしなきうた ものヽへのよしな
よのうきめみえぬやまちへいらむにはおもふひとこそほたしなりけれ
〔高野切古今和歌集巻第十八・雑歌下・955(『古今和歌集綜覧 改訂版』書藝文化新社)〕
良名のこの歌については、「恩愛の覊絆をいふは常套にして、陳腐なり」(金子元臣『古今和歌集評釋』八六六頁(評)、明治書院)などと評せられるくらい、その歌意は明らかである(賀茂真淵『古今和歌集打聽』卷第十八雑下等参照)。が、だからこそ、例えば以下のごとく、歌句それぞれに相応ずる経文が思い浮かべられることにも留意したい(※2)。
㋑世の憂き目⇒在人間、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、如是等種々諸苦〔法華経譬喩品〕
㋺山路へ入らむ⇒入於深山、思惟仏道〔法華経序品〕
見老病死、悟世非常、棄国財位、入山学道〔無量寿経上〕
㋩思ふ人こそ絆しなりけれ⇒心事相応、無愛別離苦〔往生要集巻上大文第二ノ第五〕
心と事とあひかなへば、愛別離の苦も無し。〔栄花物語巻第十八たまのうてな〕
俗なる「人間」世界に在って経験する「種々諸苦」をひとまとめに「世の憂き目」と言いなして、これら憂苦を逃れて「仏道」を「思惟」すべく深い「山路へ入」ろうとする際に「絆し」(=枷ヤ鎖ナドノ束縛)となる存在が愛しく「思ふ人」にほかならぬ――つまり良名の詠作を、「種々諸苦」を「愛別離苦」に代表させて「恩愛の覊絆」を詠みなしたもの、と把握しようとするわけである。そうして、この「常套にして、陳腐」な内容を「同じ文字なき歌」に仕立てている良名の技量に、あらためて感服させられる。
このような把握は、さらに、涅槃経に説かれ「古くより「いろは歌」の原型とされ、婆羅門僧正の作という伝承がある」(小学館版『例文仏教語大辞典』599頁)諸行無常偈――「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」――にまで思い至らせるのではないか。この偈は、例えば、源信が著した平安中期の仏教書である往生要集巻上・大文第一の第七や、平安末期の「説話資料集」(新日本古典文学大系31「解説」551頁参照)と評せられる注好選の中・第三十五などにも見える。思えば、七五調四句の今様歌である〝いろはうた〟も「同じ文字なき歌」の一つなのであった。
なお、良名や大弐の詠作はもとより法文歌ではない。経典類から句を抜いて歌題とし、その句の意味や趣旨等を詠む法文歌は、11世紀後半の院政期、後拾遺和歌集の頃に本格的に現れる(山田昭全「釈教歌の成立」『山田昭全著作集』第三巻、おうふう)。良名・大弐ふたりの歌は恋歌でなく、共に雑歌の部に収められており、述懐歌というべき内容を有していよう。とくに新勅撰和歌集においては雑歌とは別に、巻第十を釈教歌の部立としていたのである。
「本朝ノカナヅカイ」をめぐる問答――蔗軒日録の記事
尊経閣善本影印集成76としてその影印を高精細カラー画像で収める『蔗軒日録』三冊は、室町時代の禅僧、季弘大叔(1421~1487)の私日記である。記主である季弘本人の自筆原本は伝わらず、江戸時代前期の書写にかかる尊経閣文庫所蔵本が、わずかに現存する唯一の伝本である(川本慎自氏「解説」参照)。この蔗軒日録に、季弘が琵琶法師「城匊」と「本朝ノカナヅカイト云事ヲ」問答した記事が見える(原文は縦書き。以下に引用する本文は影印版に拠り、適宜句読点・鉤括弧等を施す。なお、墨書による右傍注記は〈 〉で括り示す)。
【日録】城匊至。予問〈フ〉、本朝ノカナツカイト云ヿ〈ヲ〉。荅曰「昔、物ノ丶ヘノ吉名ト云者、無同字哥曰『卋ノウキメミヘヌ山地へイラムニハヲモウ人コソホタシナリケレ』。集ハ古今、延㐂ノ比〈五年〉撰、于今六百年〈五百八十年〉ニ近也」
〔蔗軒日録・文明十七年(1485)十月十六日条(中・12ウ⑦~⑨)〕
季弘が問うた〝本朝の仮名遣〟に関する城匊の答えは、〝物部の吉名と云者〟が詠んだ「無同字哥」の紹介と、この一首を収める「古今」和歌集撰集年時の概要との、二つである。
まず、後半について――右傍の墨書注が記主である季弘本人にまで溯るかどうか判然とせぬながら、江戸時代前期の書写にかかるこの伝写本に記された、延喜「五年」(905)が文明十七年(1485)当時「五百八十年」にあたるという注記は、古今撰集に関する現在の通説に一致しており、すこぶる興味深い。
翻って、前半に記された「物ノヽベノ吉名ト云者」が詠んだ「無同字哥」も、前節で引用したとおり、実際、古今和歌集に収められている。なお、蔗軒日録に記された三字「無同字」について、大日本古記録本(107頁説明註)では「三字傍書ノ攙入カ」といぶかっているけれど、古今和歌集を参照すれば、「無同字哥」とは「同じ文字なき歌」と記された詞書にあたることが明らかなので、日録本文のままでよい。
「無同字哥」の書記様態――用字の重複
しかしながら、古今和歌集の「同じ文字なき歌」を記載した蔗軒日録のありようは、往時の仮名遣いを十全に反映してはいない。
「卋ノウキメミヘヌ山地へイラムニハヲモウ人コソホタシナリケレ」――「おもふ」を「ヲモウ」と表記しているところから端的にうかがわれるように、平安期から(江戸前期にまで)遙かに時代が下っているせいで、音韻変化に伴い仮名遣いも変わってしまい、「同じ文字なき歌」であるにもかかわらず用字の重複が見受けられるのである。
▷「ウ」文字の重複……「ウキメ(憂き目)」「ヲモウ(思ふ)」
▷「へ」文字の重複……「ミヘヌ山地ヘ(見えぬ山路へ)」
江戸時代前期の国学者、契沖は、以下のように注していた(引用に際し、私に清濁を分かち句読点・鉤括弧を施すとともに〔 〕内に注記を加える)。
【注解】此哥、「見えぬ」といひ「山路へ」といへるに、聞ところ同じもじあれど、字躰別なる故、其難なし。〔……新勅撰和歌集ノ大弐詠ヲ引用シテ〕此哥は「ゑ」と「え」と同音の字あれど、これさへ字躰別なれば、同じ文字にあらず。これをよくわかたぬ人はおなじもじなき哥になりて、えよまぬことあるべし。
〔古今餘材抄第九(岩波書店版『契沖全集』第八巻五七六頁)〕
「見えぬ」の「え」と「山路へ」の「へ」とが、また「ゑ」と「え」とが、耳で「聞(ク)ところ同じ文字」だけれど「字躰(ガ)別」であるとは、現在の私たちにとっても違和感のない音韻認識であろう。
したがって、カナ文字が重複する蔗軒日録の書記様態は「無同字哥」を書きとめようとした後代の、記主(あるいは筆写者)の所為に帰すべきなのであろう。この歌を記すにあたっては「卋」「山地」「人」のごとく漢字も充てられており、歌意の疎通が優先されているものと認められる。
思いめぐらせば、現在の私たちも、「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそ絆しなりけれ」と、漢字かな交じりの表記に換えるだけでなく、
【試訳】(俗)世(間)のつらい目に(出)遭わない(で済む)山道へ入ろうとするには、
(大切に)思っている人こそ(が)足手まといなのだった!
などというふうに現代語訳まで用意しながら、古典和歌の読解に努めている。季弘も、まずもって歌意を把握すべく漢字を最小限あてながら「無同字哥」を書きとめようとしたものか、と臆測される。
「いとあやしき梵字」――王朝びとの言語生活
もっとも、〝本朝の仮名遣〟をめぐる問答の例証であったという点に留意するなら、日録に記された書記様態からは離れ、あるいは城匊自身この「無同字哥」を季弘に向けて「同じ文字なき」声によみあげたものか、とも想像される。
もちろん「歌の文字」(古今和歌集仮名序)すべてが異なる一首を琵琶法師城匊が銘記したのには、経句を連想させるその歌意も大きく与かっていたにちがいない。ちなみに、大弐が試作したもう一つの「無同字哥」から想起される涅槃経には、「夫盛必有衰、合会有別離」と説かれている。これは、琵琶法師になじみ深い平家物語に見える理(ことわり)を、おのずから彷彿させるであろう。
蔗軒日録の簡短な記事から見透されるのは、琵琶法師城匊が経句を連想させる「無同字哥」を諳んじながらいきいきと交わした、記主季弘との言談の一齣であったかと思う。
「おなじもじなきうた」――ややもすれば表現技巧のほうに目を奪われがちになるけれど、この、言葉遊びを巧んだ歌に潜んでいる経文の存在も見過ごしてはなるまい。「合会有別離」や「愛別離苦」あるいは「諸行無常」といった経句は、むしろ、無同文字歌を詠むにあたって、暗黙の前提あるいは不可欠の要件であったと捉えるべきではなかろうか(※3)。
かくして、「同じ文字なき」ありように関心する契機の一つには、「いとあやしき梵字とかいふやうなる跡」(源氏物語若菜上)にふれる機縁に恵まれた王朝貴族の日常があったと想察する。たんなる言語遊戯の域にとどまらず、法文歌や経旨歌の萌芽ともいうべき無同文字歌には、梵字という種子(しゅじ)が蒔かれていたものかと思われる。
(※1)『續萬葉論』卷第十八・續萬葉集秘説卷第十九(賀茂眞淵全集第一、弘文館、四百七十一頁および七百九十七頁)所引本文では、初句を「あふことに」と作っている。このような本文の場合、上句はあるいは「あふごとに今は限りのたびなれや」と解釈すべきで、訳文も例えば、「会う毎にこれが最後の機会(つまり)後生への旅(立ち)なのかしら?」のごとく変わってしまうこととなろう。但し「あふことに」の「に」は、かな字母の類似から[尓←→よ]の本文転訛を考慮する余地が残っている。
(※2)ちなみに、島田忠臣(828~892?)作の「拜佛像」詩の起句「身厭世網入深山(身は世網を厭ひて深山に入る)」は、あたかも良名詠の上句「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには」に暗合する。世の中のしがらみを網に喩えた「世網」はじめ、比叡山の山奥深く分け入ることをいう「入深山」も「白居易詩の用法によったものであろう」(『田氏家集注』巻之上39頁)との注を顧みれば、良名詠の基層に、いわゆる白詩を摂取した文学史的環境も視野に入れるべきであろう。
(※3)元永本古今和歌集に読人不知の作として収められるもう一首の「おなじ文字なき哥」――「おきつなみうちよするもにいほりしてゆくへさためぬわれからそこは(沖つ波うち寄する藻に廬して行方定めぬ割殻ぞ此は」は、この前提あるいは要件を満たしているのだろうか。