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中根隆行:虚子の原風景―西の下と道行く遍路―

故郷の形象―子規と能成
 室生犀星の詩に「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(「小景異情―その二」)とあるように、故郷とはそこから離れた人々が思いを馳せる場所としてある。この詩も上京して離れた故郷金沢の「小景」が「異情」として詠まれており、「よしや/うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても/帰るところにあるまじや」と続く。このように懐郷の念とは常に複雑なものではあるが、帰郷して出会った景色への情感や異郷にあって想起される風景は、記憶に残る形象を伴って思い起こされる場合が多い。伊予松山を離れた人々にとって、故郷の形象とは勝山にそびえる松山城の風景が筆頭にあがるのだろう。だが、かつてならば、故郷の一風景として四国遍路が頭をよぎる事例も少なくないはずだ。
 正岡子規の「順礼のゆめをひやすや松のつゆ」(「山路の秋」)は望郷とは異なるが、「途中畑中村(はたけなかむら)にて老松の下にいこふ」とあるように、1891年に帰省した折りに唐岬の滝と白猪の滝へ向かう途中の一句である。帝国大学の学年試験を受けず退学を決意し、小説「月の都」を執筆しようとする時期であり、「在帝国大学 子規子」と記されている。また、安倍能成は、京城帝国大学着任が決まり、1924年から約2年間ヨーロッパに留学しているが、25年8月下旬、旅先のノルウェイのインヴィーケンでこう綴っている。「故郷の伊予の陸近くを汽船がゆく時、菜種や麥の畑がまばらな磯馴松の間から見える岸近い街道を通る四国遍路の笠姿を、私は何となく思ひ出した」(『ギリシヤとスカンディナヸヤ』)。北欧と松山の海浜風景を「心なごむ景色」として重ねたのだ。彼は戦後に「昔のやうにわらじがけで四国遍路をやつて見たいといふ願ひを持ちつつ、それも果たさない中にさういふことのできぬ年齢になつてしまつた」とも語っている(『私のあゆみ』)。この二つの事例からも、四国遍路の形象が、故郷を指し示す一風景であったことがわかる。

虚子と西の下の遍路
 それでは高浜虚子の場合はどうだろうか。正岡子規や安倍能成と比べたら、虚子はより故郷にこだわった人である。「ここにまた住まばやと思ふ春の暮」。1940年、父の50年忌のために松山に帰省した際、幼少の頃の数年間を暮らした風早郡柳原村西の下(げ)の旧居跡を訪れたときの一句である。生まれたのは温泉郡長町新町(現湊町)だが、松山に帰省した折りはたびたび西の下に足を延ばした。虚子にとっては、西の下が故郷の原風景であったのだろう。この場所で詠まれた句のなかに遍路の形象も刻まれている。

此松の下に佇めば露の我(「ホトトギス」1917年11月)
幼き時遍路が抱きし我あはれ(「ホトトギス」1926年1月)
道のべに阿波の遍路の墓あはれ(「ホトトギス」1936年4月)

 虚子が暮らした家の近くの大師堂には、のちに遍路松と呼ばれる老松があった。「此松の」の句の「露の我」には、どのような情感が込められているのだろうか。あと二句については『虚子自伝』から該当する箇所を引いておこう。まずは「幼き時」の句である。「表に遊んでゐた私を、ある一人の女の遍路が抱き上げて、大川の土橋の向うまで連れて行つたのを、その〔村の〕娘が通りがゝつて気がついたので、その遍路の手から私を受け取つて、連れて来たのだといふことがあつたさうであります。丁度私位な子供を亡くした。〔原文ママ〕哀れな女遍路であつたらうといふことでありました」。「道のべに」の句についてはこうある。「これは沢山来る遍路の中に、この道端で亡くなつた一人の遍路の墓であらうと思はれました。生国は何処かと訊いた時分にその遍路は阿波と答へたものでありませう。何か哀れな物語がありさうに思へるのでありました」と。

道行く遍路と遠い彼方の世界
 高浜虚子の西の下の三句は、それぞれ詠まれた時期は異なるものの、「露の我」「我あはれ」「墓あはれ」と韻を踏んでいるかのようである。「露の我」と二人の遍路とは、何かしらの儚さでつながっているとも感じられる。虚子にとって西の下は、まぎれもなく原風景と呼ぶにふさわしい場所であり、そこには遍路の形象が確と刻まれている。それにしても不思議なのは、そこで暮らす者にとって遍路を旅する人々は土地に縁もゆかりもない他者であるということだ。虚子の遍路の記憶は19世紀後半の話であり、今日のような観光客ではない。しかしこれも、以下の回想をみるとなぜか腑に落ちるような感じがする。

私は母の膝に乗って、遍路を神秘的なものにみたり、風の吹く電信柱に耳を寄せて、遠く遠くの音を聞こうとしたり、夕日の落つる千切、小鹿島の晩景を美しと見たり、高縄山の麓に灯る狐火をこわがったりした幼い時分の気持が抜けませんでした。四年間の学校生活を夢のように過した私は、この頃になって、また大空の彼方のあるものに憧れるような心持を抱いて往来を歩いたり、書肆の前に佇んだりしました。(『虚子自伝』)

 幼い頃の虚子は、このように西の下で遠い彼方の世界に思いを馳せたのである。道行く遍路が「神秘的なもの」と映るのは、遠い彼方から来た人々であるからだ。西の下は、故郷の原風景であるとともに、そこから子どもながらに想像していた、いわば世界の原風景でもあったのだろう。故郷を感じるためには、そこから一度離れなければならない。西の下から四国遍路の記憶を思い浮かべる虚子は、自分もまた遍路のように流離いの旅を続けている、そう感じていたのではないだろうか。

*このウェブエッセイは、隔月『インタビュー』(2026年4月号〔vol.194〕、ナレーション編集・発行、2026年3月20日)に掲載された「四国遍路と世界の巡礼 第36話 虚子の原風景―西の下と道行く遍路」を再録したものである。

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