神楽岡幼子:正岡子規と芝居―傾城恋飛脚―
傾城恋飛脚
芒尾花はなけれとも世を忍ふ身の
招く手はなけれど淋し枯薄
こゝらあたりに見なれぬ女中
いぶかしや賤が伏家の冬牡丹
ものいはず顔見ずと手さきへなとさはつたら
闇の夜は鼻で探るや梅の花
冒頭に示したのは「寒山落木」に収められた正岡子規の句である。「寒山落木」は明治18年から明治29年までの子規の句12,700句を書き留めた稿本であるが、その明治22年の条におさめられたものである。子規は慶応4年の生まれであるから、明治22年はちょうど22歳、みなさんと同じ年頃ということになる。
俳人として知られる子規であるが、歌舞伎や浄瑠璃といった芸能にも親しんでいたことについては拙稿に述べたことがあるが(注1)、「寒山落木」の子規の句は浄瑠璃『傾城恋飛脚』の「新口村の段」に寄せて詠まれたものである。
『傾城恋飛脚』は安永2年(1773)大坂で初演された菅専助・若竹笛躬合作の浄瑠璃である。近松門左衛門作『冥途の飛脚』(正徳元年(1771)初演)、その改作である紀海音作『傾城三度笠』(正徳3年(1773)初演)などの先行作を利用して作られたもので、『けいせい恋飛脚』と表記することもある。また、『恋飛脚大和往来』の外題で歌舞伎化もされている。
物語の主人公は梅川忠兵衛の二人。忠兵衛は養子に入った飛脚屋の仕事に勤しむ一方、遊女梅川と恋仲になっていたが、止むに止まれぬ展開から、忠兵衛は梅川の身請けのために公金300両に手を付けてしまう。覚悟を極めた二人は忠兵衛の実父孫右衛門によそがなら別れを告げるため、新口村へ向かう。
新口村では忠兵衛の幼なじみの家に身を潜め、通りがかった孫右衛門の姿に、家の内から手をあわせるところ、孫右衛門が薄氷に足をすべらせ転んでしまう。たまらず飛び出し、介抱する梅川。梅川をそれと察する孫右衛門。同時に愛しい息子忠兵衛がすぐそばに居ることを悟るものの、犯罪者となった息子を見て見ぬ振りをして逃がしては世間が立たない。しかし、それでも会いたい・・・。
孫右衛門がどうするかは、『傾城恋飛脚』を読んでもらいたい。近松作の『冥途の飛脚』も合わせて読んでもらいたい。『冥途の飛脚』と『傾城恋飛脚』では、演出が大きく異なるがみなさんは何を感じるであろうか。
はなしを子規の句に戻そう。子規の句の前書き「芒尾花はなけれとも世を忍ふ身の」、「こゝらあたりに見なれぬ女中」、「ものいはず顔見ずと手さきへなとさはつたら」は『傾城恋飛脚』の詞章をそのままに引いたものである。以下、順に見て行きたい。
芒尾花はなけれとも世を忍ふ身の
招く手はなけれど淋し枯薄
以下にあげたのは『傾城恋飛脚』「新口村の段」、梅川忠兵衛が新口村に到着した場面の初演時の浄瑠璃正本『けいせい恋飛脚』の詞章である。
落人の為かや今は冬がれて。薄尾花はなけれ共。世を忍ぶ身は後や先。人目を包む頬かぶり。隠せど色香梅川が。馴ぬ旅路を忠兵衛が労はる身さへ雪風に。凝る手先懐に。温められつ温めつ。石原道を足引の。大和は爰ぞ古郷の。新口村に着けるが
なお、初演時の浄瑠璃正本では「世を忍ぶ身は」とあるが、子規も読んでいた『絵入倭文範』(金桜堂、明治17年刊)収載の『傾城恋飛脚』では「世を忍身の」となっている。
『恋飛脚』では「芒尾花」がなかったけれども、子規句では「枯薄」があるものの「招く手」がないという。この「招く手」がどこから来たかというと、これも『恋飛脚』に拠るらしい。幕開きの演出もその時々によって異なるが、例えば、次の様な場面から幕があく場合がある。舞台は忠兵衛の幼なじみの家の前。そこにまず忠兵衛が登場し、あたりをうかがう。そして、人気がないことを見てとって、梅川を手招きする。犯罪者の逃避行ではあるが、歌舞伎の様式的な表現にもとづき、梅川と揃いの、黒無地に梅と流水の裾模様の美しい衣裳を身につけ、色男の忠兵衛は、顔は白塗り、手も白く塗られている。その手が、薄暗がりの中、梅川を招くのである。白く、優しく、切ない手招きである。
子規が『恋飛脚』の舞台を観たことがあるのか、観たとしてもどんな演出の舞台を観たのかはわからないが、子規句の「招く手」には忠兵衛の手が思い起こされる。枯薄の向こうに忠兵衛のまぼろしをみた一句であろう。
こゝらあたりに見なれぬ女中
いぶかしや賤が伏家の冬牡丹
前書きは薄氷に足をすべらせ転んでしまった孫右衛門を、介抱する梅川に対する孫右衛門の台詞である。梅川は美しい着物が汚れるのも厭わず、孫右衛門を抱き起こし、孫右衛門の着物の濡れた裾を絞り、と甲斐甲斐しく世話を焼く。その一つ一つの動作が、舅、孫右衛門への気持ちにあふれている。が、孫右衛門には不可解な展開であり、『恋飛脚』には次のように描かれる。
不思議そふに打守り。爰らあたりに見馴れぬ女中。マアこな様はどなたなれば。此様に。念頃にして下さりますと。顔つれ/\と眺れば
どうしてこれほど親切にしてくれるのか。孫右衛門は片田舎の新口村にはまず見かけない、派手やかな人目に立つほど美しい女の姿に不審を抱く。子規はその不審を「いぶかしや」とし、忠兵衛の幼なじみの粗末な家に身を潜めていた梅川の存在を、ぱっと人目を引く大輪の牡丹の花にたとえる。
「賤が伏屋」は例えば、「このごろは賤が伏屋の垣ならび涼しく咲ける夕顔の花」(拾遺愚草)や「夏の夜の月見ることやなかるらん蚊遣火立つる賤の伏屋は」(山家集)のように、和歌の世界でも詠まれてきた景物である。『恋飛脚』の片田舎の藁葺きの粗末な家を、歌ことばで表現してみせたことにより、子規は『恋飛脚』の泥臭い田舎の日常の景色を、打って変わって奥ゆかしい古雅な景色へと転じたのである。
ものいはず顔見ずと手さきへなとさはつたら
闇の夜は鼻で探るや梅の花
梅川を忠兵衛の相方と悟った孫右衛門は近くに忠兵衛が来ていることにも気が付く。しかし、忠兵衛は犯罪者であり、見逃すわけにはいかない。世間への義理がたたない。でも会いたい。会えば、自らの手で役所へ突き出さなければならない。でも会いたい、と孫右衛門の痛々しい葛藤が続く。梅川も何とか親子の最後の別れを実現させたい。そこで、孫右衛門に提案する。目隠しをしましょうと。「めんない千鳥」(目隠し鬼さん)のように目を手拭いでかくしましょうと。前書きの「ものいはず(と)顔見ずと手さきへなとさはつたら」はそのときの孫右衛門の台詞である。前後を示すと下記の通り。
慮外ながらと。めんない千鳥。御不自由には有が。斯さへすれば傍にござつても構ひは有まい。ヲヽヲ忝ふござる/\。物云ずと顔見ずと。手先へなと障つたら。それが本望逢た心。親子一世の暇乞
ことばを交わすことも出来ず、顔を見る事もかなわなくとも、せめて手先だけでも息子の存在を感じたい。この世の最後の別れである。子規は見えない中で大切なものの存在を探るさまを、闇夜で梅の香りを探るさまにとりなした。梅は「梅川」の梅を効かせた花であるが、姿かたちよりも香りで感じるものという和歌の世界の梅の本意本情を意識したものである。たとえば、『古今和歌集』には「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」の和歌がみえる。夜の闇の中、梅の「色」は見えなくても、「香」は隠せない。江戸時代に版を重ねた歌学書『初学和歌式』を見ても、「梅 にほひを専らによめり (略)やみはあやなしとも、月夜にはそれともみえぬなど相応也」とあり、梅のイメージは受け継がれている。その文学史の流れの中に、子規もいるのである。
さて、「寒山落木」は稿本として残されたものを子規没後、『子規全集』(アルス、大正13~14年刊)に収載するかたちで公刊されたが、昭和50~52年に刊行された講談社版の『子規全集』では「傾城恋飛脚〔三句〕」として、収録されている。続く三句が『恋飛脚』に寄せたものであるということを示してくれたものであろうが、実は「寒山落木」にはもう一句、『恋飛脚』に寄せた句がある。国会図書館に収められている「寒山落木」の稿本を見ると、句のうえに墨で棒線が引かれており、子規としては気にいるものではなかったようであるが、子規から出たことばである。子規を知りたいときには、これも知っておきたい一句であろう。ネット環境の発達によって、子規の句を集めることも簡単になった。ただ、それだけでは見落としてしまう情報ももちろんあることを常に意識しておきたい。ちなみに、先の三句はネット検索で引っかかるが、「寒山落木」で墨線によって消された次の一句はネット検索には引っかからない。
ほんにこゝはつるぎの中
をし鳥や氷の剣ふんで行く
前書きは新口村に着いて、幼なじみの家に身を隠し、忠兵衛と二人になったところで口にした梅川の台詞である。忠兵衛の実家がある新口村にも追っ手が探索に来ている。いつ見つかるかわからない梅川の不安が「剣の中」と表される。
コレ忠兵衛様。ほんに爰は剣の中。斯して居ても大事ないかへ
子規は梅川忠兵衛を鴛鴦に見立てる。鴛鴦はもちろん夫婦仲の良さを象徴する鳥である。そして、子規は「氷の剣」と、氷を剣に喩えてみた。しかし「氷の剣」はどうであろうか。たとえば薄氷のような危うさであれば、鴛鴦の足下にかなったかもしれないが、「氷の剣」では些かすっきりしないように思われる。「氷の剣ふんで行く」とした子規のことば、そして、それを却下した子規の選別、いろいろと考えさせられる一句である。データ化されてはわからない、稿本ならではのおもしろさである。
江戸時代に作られた『傾城恋飛脚』であるが、子規のこと、古今和歌集のことなど、話題は広がった。決して江戸だけでは終わらない、文学史の流れの中、文学を考える意識をもってもらいたい。また、データは便利ではあるが、データでは見落としてしまうものがあるということ、子規の稿本という生の資料にしかない情報のおもしろさについても考えてもらいたい。文学研究の醍醐味をたくさん味わって欲しいと思う。
(注1) 「子規と歌舞伎」(『子規会誌』131号、松山子規会、2011年6月)、「子規と義太夫」(『国文学』96号、関西大学国文学会、2012年3月)、「子規と芝居」(『愛文』47号、愛媛大学法文学部国語国文学会、2012年3月)