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中根隆行:大江健三郎と「戦後の精神」

1.「真面目の力」と「明治の精神」
 大江健三郎だから許される質問というものもあるのだろう。しかも相手は古井由吉であり、都合二度繰り返されたことになる。2015年6月開催の「漱石100年後の小説家」と題された公開対談で明かされたエピソードである。かつて二人が同席した際、大江が「古井さん、夏目漱石で三冊挙げるとすると、どの作品が良いでしょうか」と問いかけたものの、古井は答えなかったというものである。あらためて公開対談の場で披露されたエピソードだけあって、そこではまず大江から「書かれた年代順に、「虞美人草」、「こころ」、「明暗」となります」と述べ、古井は少しあとで「ちなみに、私の漱石の三作は、「こころ」、「道草」、「草枕」の三作です」と回答している(1)。現代日本を代表する二人の作家が漱石作品のなかで『こころ』を挙げているところに要点がある。
 これはいわば呼び水であり、そのあと大江健三郎は以下の古井由吉による岩波文庫版『こころ』の解説を引く。「無用の先入観を読者に押しつけることになってもいけないので、この辺で筆を置くことにして、最後に、これほどまでに凄惨な内容を持つ物語がどうしてこのような、人の耳に懐かしいような口調で語られるのだろう。むしろ乾いた文章であるはずなのに、悲哀の情の纏綿たる感じすらともなう。挽歌の語り口ではないか、と解説者は思っている。おそらく、近代人の孤立のきわみから、おのれを自決に追いこむだけの、真面目の力をまだのこしていた世代への」(2)。この掉尾を飾る一文に関して、大江はこう解説している。

 「おのれを自決に追いこむだけの、真面目の力」。ここで皆さんに注意していただきたいのは、いろんな条件、出来事があって人は自殺すると漱石は書いているわけではありません。「真面目の力」が人間をどのように導き、追い詰めるか、その結果、自殺にいたらしめさえすることがある、と書いているのです。〔/〕だから、近代・現代人の自殺を文学の主題にした作家はたくさんいますが、漱石の場合はそれとは違います。(3)

 『こころ』に描かれているのは、自殺する人間には個々具体的な理由があるということではない。その真摯さゆえに「先生」のような人間を自殺へと追いやる「真面目の力」を描いたというのだ。確かに『こころ』には「真面目」という語が頻出する。「先生」もKも「真面目」である。そして「先生」は遺書でも、「私は何千万とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから」と書き記している(4)。「真面目の力」は、「先生」やKに特有なものであるが、それは「先生」の遺書を通じて「私」へと受け継がれているようでもある。ここで大江健三郎もこだわっている、あまりにも有名な箇所を引用しよう。

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。〔/〕私は殉死といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答へました。(5)

 これまでの文脈を踏まえていえば、「明治の精神」とは明治を生きた知識人――「先生」を含めた漱石の世代――の時代精神ということになるだろうか。その精神を特徴づけているのが「真面目の力」である。別のところで大江健三郎は、「明治の精神」について「若い僕は、漱石にも国家主義的なところがあるのかと反発した。〔/〕しかし今回、注意深く読み返すと、違ったものに読めました」として、次のように述べている。

 自分が生きた明治という時代の「人間の精神」を「明治の精神」と言っているのだと。天皇や大日本帝国ではなく、明治の人々の精神が、今までの日本の歴史の中で特別なものだと言いたいのだと。つまり漱石自身の精神をふくめて。〔/〕「時代の精神」というものがあると、はっきり表現し得た小説として、「こころ」は特別な作品だと思います。100年前の日本人の精神を知りたければ「こころ」を読めばいい。そういう小説だと強く感じています。(6)

 古井由吉は、「先生」の遺書が「真面目の力をまだのこしていた世代への」「挽歌の語り口」で綴られていると評した。大江健三郎はさらに進めて、漱石は「明治の人々の精神が、今までの日本の歴史の中で特別なものだと言いたいのだ」と解釈する。「真面目の力」を有する「明治の人々の精神」は、歴史的にみれば明治をもって新しく育まれた「特別な」時代精神であったというのである。乃木希典夫妻の殉死がいわば封建遺制として批判的にも報じられた当時にあって、「先生」より若い世代にとっては時代錯誤の精神であっても、より大きな視座からすればこれまでになかった独特なもの、それが「明治の精神」である。このように大江の『こころ』評に注目するのはほかでもない。彼は掲出文の直後において「漱石の「明治の精神」を僕自身にあてはめると、「戦後の精神」ということになります」と述べているからである。なお、大江の後期作品群を象徴する主人公の長江古義人が「森の谷間の村」に帰郷するところから始まる2009年発表の長篇小説『水死』では、作中で漱石『こころ』が題材となり、「先生」の「明治の精神」とは何かが問われてもいる。

2.大江健三郎の時代――追悼文から
 大江健三郎が2023年3月3日に死去した。それが一斉に報じられたのは3月13日、4月7日発売の文芸誌三誌――『新潮』『文學界』『群像』――の五月号には大規模な追悼特集が組まれている。まずは『文學界』に掲載された蓮實重彦による追悼文を引こう。

 一つの時代が終わった、とつくづく思わずにはいられない。子供心にも戦前のこの国を多少なりとも知っており、「戦後は終った」といわれた1960年代にあなたがその才能を遺憾なく発揮された途方もない世代の終焉である。その時代をともに生きていられたことを、この上なく幸運なことだったといまは自分にいい聞かせることしかできない。わたくしたちは、中国大陸への理不尽な軍事侵攻が活況を呈しはじめたころ、そんな事態はまったくあずかり知らぬまま、侵攻しつつあるこのちっぽけな島国に、みずから責任はとりがたいかたちで生をうけた。早生まれのあなたとわたくしとは、年齢では一歳違う。学年で言うと二年の差があるが、ほぼ同時代人といってよかろうかと思う。(7)

 大江健三郎の死は、ひとりの作家の死であるとともに、「一つの時代が終わった」と言わしめるほどの「世代の終焉」でもあった。「わたくしたち」と語り始められる後段は、芥川賞受賞後、大学にまったく姿を見せなくなった大江を、蓮實重彦が一度だけ本郷キャンパスで目撃したエピソードへとつながってゆく。「ある寒い季節に、あなたは戸外で遥か遠くの何かをじっと見すえておられた」。これが追悼文の題名である。同世代をもうひとり挙げるとすれば、筒井康隆だろうか。『新潮』の追悼特集には彼による「お詫びその他。」が載っている。新聞雑誌各社から追悼文の依頼が殺到し、すべては断っているとして担当者に 送信されたお詫びのメール文の掲載である。それだけ大江の死に衝撃を受けたことの証左であろう。筒井には2017年に発表された「ずっと大江健三郎の時代だった」と題されるエッセイがあり、こんなことが綴られている。

 まだ乃村工藝社にいた頃、すでにSFを書き始めていたぼくは石原慎太郎の衝撃的なデビュー以来文学青年並みに芥川賞レースには関心を持っていて、雑誌に掲載されるたび開高健や大江健三郎の新作を読んでいた。ただしそれらを読みこなすだけの文学的教養はまったくなくて、ひたすら雲の上の神々のレースにしか見えていなかったのだ。芥川賞を取ったばかりの大江さんと、友人だった小松〔左京〕さんが対談しているのを読んで以来、ぼくは大江健三郎を遥かなる目標のひとつとして向学心の焦点としたようだ。(8)

 大江健三郎との長い親交について、あの筒井康隆がこうも率直に書くのかという内容となっている。「雲の上の神々」「遥かなる目標のひとつ」といった表現もそうだが、「大江さんと共にあった時代はまだ続いているのである」と締め括られていることも感慨深い。この「ずっと大江健三郎の時代だった」は、もとより筒井個人の域を出るものでないが、エッセイの題名は、大江の死によってそれ以上の意味を帯びることになった。追悼特集に掲載されたひとつひとつの追悼文を読み進めれば、明らかに「大江健三郎の時代」と認定するに相応しい時代が、世代を超えて共有されていたことがわかるからである。
 たとえば、批評家で哲学者の柄谷行人は、1990年に初めてアメリカで会って以降のことを回想して「彼〔大江〕は、この人になら何を言ってもいい、という信頼感をもてる人であった」と書き、「大江健三郎の訃報を聞いたとき、私は、何か重要なものの死を感じた。詰まるところ、それは、「近代文学」の終焉である」と述べている(9)。また、劇作家の野田秀樹は、「「大江健三郎」は、1955年生まれの私の上下二十年の幅くらいの世代にとっては特別な作家だ。その頃、文学を愛好し、あるいは文学を志す若者が、真っ先に挙げる作家の名前だった」と述べ、中学のとき「友人の口から突然、当然のように「大江健三郎」の名前がでてきて、慌てて本屋へ行って買って読んだのが「芽むしり仔撃ち」だった」と打ち明けている(10)。
 追悼文は、故人の在りし日を偲び、その死を悼む文章だが、生前に一度も会う機会に恵まれなかったフランス文学者で詩人の松浦寿輝は、こう書いている。「大江健三郎と古井由吉だけはずっと読みつづけてきた。古井が2020年2月に亡くなり、そのほぼ三年後、この三月に大江が逝去し、これでついに、新作が出るたびにともかく必ず読むという同時代の作家は、もうわたしには一人もいなくなってしまった」。43年間、大江健三郎を読み続けた読者として、このあと松浦は大変興味深いことを綴っている。

 ここ十日間、大江健三郎の作品と人生に思いをめぐらせ、数多の感慨が心のなかで渦巻きつづけたが、それらが今何とはなしに、「誠実」と「猛烈」という二つの言葉に収斂してゆくように感じている。大江健三郎はとにかく徹底して「誠実」な魂だった。同時にまた、とことん「猛烈」な人生をおくった人だった。つくづくそう思う。(11)

 小説を読む読者は、その作品世界だけでなく、作家の人生にも思いを馳せることができる。大江健三郎の小説やエッセイ、評論を読み続けてきた松浦寿輝は、作家の人生を「「誠実」と「猛烈」」という二つの言葉に縮約する。そして「あんなに「誠実」たらんと努める必要があったのか。あんなに「猛烈」に生き、かつ書く必要があったのか」と記している。読者からしても、そう問いかけるほどの人生であったというのだ。この「「誠実」と「猛烈」」という大江の人物評は、彼や古井由吉が『こころ』にみた「真面目の力」に通底しているのかもしない。

3.「戦後の精神」と谷間の村の想像力
 ひとりの作家の死を悼み、それをひとつの時代の終わりとしてとらえること。そのような事態が稀であることは確かだが、その死をもって大江健三郎の時代があらためて認識されたという事実は、ある人は高らかに、ある人はひそやかに、それを追悼文に書き綴っていることからも明らかだろう。もとより、ここで大江はどう考えていたかを問うのは適当ではない。だが彼は、「小説家として生きることは、その時代がその人間に集結すること」という言葉を残してもいる(12)。その意味では、大江自身が漱石の「明治の精神」に擬して、私の場合は「戦後の精神」だと述べたのは、正しく言い得て妙の表現であったと思われる。

 今の若い人には想像できないでしょうが、当時の混乱には何か生き生きと動いている感覚があった。個人の権利が保障され、僕も、東京あるいは世界へ出て行って何かやりたいと思った。戦後は明るかった。今七九歳の僕にとっては、六七年間ずっと時代の精神は「不戦」と「民主主義」の憲法に基づく、「戦後の精神」でした。(13)

 大江健三郎が敗戦後から一貫して戦後民主主義者であったことは自他ともに認められている。「ぼくは四国の山村の谷間で、新制中学に通ったのだったが、その時分、ぼくは、全国的だったデモクラシーの気分において、東京の中学生と、おなじ場所、おなじ時点にたっていると感じて、ほとんど地域的な劣等感をもたなかったのであった〔…〕すくなくとも、ぼくは現在の子供たちが《鉄腕アトム》にたいしてと同様、漫画挿絵いりの《民主主義》という教科書に熱中したものであった」(14)。この大瀬中学校での民主主義の教科書との出会いは、作家となって以降、何度も語られている。
 作家としてデビューを果たした大江健三郎は、身をもって戦後民主主義を体現するかのように、精力的に動くことになる。60年安保闘争に代表される政治状況のなかで、「戦後世代」を自称しながら、日本国憲法に基づく主権在民、戦争放棄を理念として言論活動を展開する。ときに高度経済成長期を迎えていた日本で、1963年に広島の被爆者たちと会い、65年以降には沖縄を何度も訪問して、それぞれ『ヒロシマ・ノート』(1965年)と『沖縄ノート』(1970年)にまとめている。もとより、評論を主とする言論活動だけで「戦後の精神」をとらえるわけにはいかないし、小説家としての軌跡も大切だろう。大江は、読みにくい文章を書く作家として知られている。それは、彼の異様な文体がある種の新しさを伴っていたこと、読者もまたその独特な表現に惹かれたことを物語っている。「他人の足」(『新潮』1957年8月)の冒頭を挙げよう。

 僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されており、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた。(15)

 「僕ら」とは、脊椎カリエスに罹患し、療養所の未成年者病棟のベッドに横たわり続けている患者たちのこと。まだ結核治療が困難であった時代、脊椎カリエスに罹ることは歩くことさえできなくなる可能性があることを意味した。だから、自分の足ではなく「他人の足」なのだ。しかし、注目したいのは「不思議な監禁状態」のほうである。初期作品群では、「奇妙な仕事」(1957年5月)、「死者の奢り」(同年8月)、「飼育」(1958年1月)と、かたちを変えて閉じ込められている状態を繰り返し描いた。それをのちに大江健三郎は「サルトルと強制収容所の記録の二つの指標を手がかりにする、ある監禁状態の小説化であった」と語っている(16)。敗戦から占領期を経てもなお、執拗に何らかの力によって監禁されているという認識があったのだ。
 大江健三郎の1960年代は、60年安保闘争や63年の長男光の誕生、広島の被爆者や沖縄の人々との出会いというように駆けめぐるように展開している。この時期には、頭部に障害をもって生まれた子どもと向き合う『個人的な体験』(1964年)が注目される。のちに「イーヨー」や「アカリ」となって断続的に変奏されることになる作品群の初作である。また、代表作といわれている『万延元年のフットボール』(1967年)がある。根所蜜三郎と菜採子との間に生まれた子どもにも頭部に障害があり、蜜三郎の弟である鷹四は60年安保闘争によって精神的な傷を負ったという設定である。この小説の内容を簡潔にまとめることは容易ではないが、登場人物たちは森の谷間の村に帰郷し、その土地に根づく歴史を、想像力をめぐらせることでとらえ直すという壮大な物語となっている。
 大江健三郎の小説を作品群としてとらえ直してみると、たえず四国の谷間の村に戻ってくるのがわかる。谷間の村というトポスは、大江の「戦後の精神」の原点であるとともに、あるときふと立ち戻る経由地であり、そして作家の想像力の源泉でもあった。

 谷間の村は、子供の僕にそれ自体でまったきものとして閉じている、卵のような小宇宙であった。そしてその外側には戦争のつづいている場所、海と平原と山地とがあった。山と山とに限られて長方形の空が夕焼けると、僕は異国の戦場がそこに映るように、なかば幻想し、なかばそのとおり実際に見た。僕の想像力の基本形のひとつは、その赤あかとした鰯雲が、戦場でいましも斃れようとする村出身の兵士にかわってゆく、その動く光景である。僕はいま戦場で起ったことを見たとして、出征兵士の家族のところへ報告にゆきたかった。(17)

 監禁といえるものではないが、この「谷間の村」も閉ざされている。しかも空が赤く染まると「異国の戦場」がその外部として映り、赤く燃えるような鰯雲が村の出征兵士へと変貌するという。閉ざされた村からは、決して見ることのできない外部を、夕焼け空をスクリーンにして想像すること。戦争体験をもつ大人たちとは違い、谷間の村の外側で起こっている戦争を想像によって埋め合わせていた少年の姿が語られている。それが大江健三郎の類稀な物語を紡ぐ想像力の源泉にあるのだ。
 最後に、大江健三郎の作品のなかで最初に活字化された詩を引用しよう。「私が書いたもので最初に活字になったのは、ほぼ後に記すような「詩」のかたちをしていたはず」として、のちにみずから披露したもので、敗戦直後に書かれたという題名のない四行詩である。

雨のしずくに
景色が映っている
しずくのなかに
別の世界がある

〔…〕この「詩」が私にとって忘れがたいのは、そこに少年時の自分の現実に対する態度の、あえていうなら世界観の、原型が示されているように思うからだ。事実、私はこの「詩」を作ってから半世紀にもわたって、しずくのなかの別の世界――そこには自分のいるこの世界が映っている、という自覚もある――を、文章に書き続けることになった。(18)

 谷間の村の身近にあった草木を凝視して、その細部が揺らいでいるのを確かめるという行為。これを習慣にしていた大江健三郎は、「小きざみに揺れる柿の葉を手がかりにして、谷間を囲む森全体を発見していた」といい、「雨のしずくを見つめてすごしたある時間の後、私は自分にとって生涯はじめての「詩」を書くことになったのだった」という(19)。饒舌に語られる戦時下から敗戦直後の少年時代の記憶は、作家の想像力の源泉として綴られている。この掲出文の四行詩は、閉ざされた村から見上げる夕焼け空のスクリーンとは反転している。谷間の村の身近なところに外部があり、今度はこちら側の世界がそこに映っているからだ。1945年前後の四国の谷間の村は、巨視的にも微視的にも、閉じられた地点からここではない外部を見据えようとする想像力が生まれた決定的な場所であり、大江健三郎が「戦後の精神」と呼ぶ時代精神を形成した原点であった。

(1)大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』新潮文庫、2015年、p.262、p.265
(2)古井由吉「解説」、夏目漱石『こころ』岩波文庫、1989年、pp.299-300
(3)前掲、大江健三郎・古井由吉『文学の淵を渡る』、p.267
(4)夏目漱石『漱石全集 第九巻』、岩波書店、1994年、p.157
(5)前掲、夏目漱石『漱石全集 第九巻』、p.297
(6)大江健三郎「漱石が生きた「明治の精神」」『朝日新聞』2014年4月20日
(7)蓮實重彦「ある寒い季節に、あなたは戸外で遥か遠くの何かをじっと見すえておられた」『文学界』第77巻第5号、2023年5月、p.206
(8)筒井康隆「ずっと大江健三郎の時代だった」『群像』第72巻第9号、2017年9月、p.180
(9)柄谷行人「大江健三郎と私」『群像』第72巻第9号、2023年5月、p.92、p.94
(10)野田秀樹「作家はカタルシス」『新潮』第120巻第5号、2023年5月、pp.124-125
(11)松浦寿輝「誠実と猛烈」『文學界』第77巻第5号、p.224、p.227
(12)大江健三郎・尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』増補改訂版、新潮文庫、2013年、p.368。引用は『水死』出版の際の大江の言葉として聞き手の尾崎真理子が聞き取ったものとして記載されている。
(13)前掲、大江健三郎「漱石が生きた「明治の精神」」
(14)大江健三郎「第一部のためのノート」『厳粛な綱渡り 全エッセイ集』文藝春秋社、1965年、pp.17-18
(15)大江健三郎「他人の足」『大江健三郎全小説1』講談社、2018年、p.49
(16)大江健三郎「自筆年譜」『新鋭文学叢書一二 大江健三郎集』筑摩書房、1960年、p.270
(17)大江健三郎「未来へ向けて回想する――自己解釈(8)」『大江健三郎同時代論集8』岩波書店、1981年、p.336
(18)大江健三郎「私という小説家の作り方」『大江健三郎小説1 月報』新潮社、1996年5月、pp.1-2
(19)前掲、大江健三郎「私という小説家の作り方」、p.3

*このウェブエッセイは、『愛媛国文研究』(第73号、愛媛国語国文学会・愛媛県高等学校教育研究会国語部会、2023年12月21日)に掲載された論考を再録したものである。

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