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池貞姫:朝鮮半島の言葉をめぐって

 ここでは、私が取り組んでいる研究内容の一部を、皆さんにご紹介したいと思います。私の研究内容は、一つに、類似点が多いと一般的に言われる日本語と朝鮮語が、実際両言語間で翻訳されるときに様々な点でちがってくることを、翻訳実態のデータに即して、実証的に示すことです。
 また、戦後の在日朝鮮人のための民族教育問題にも関心があり、GHQによる検閲資料を初めとした朝鮮人学校の教科書・教材資料等の調査にもあたっています。調査の過程では、在日朝鮮人が終戦を迎えた歴史的大転換のときから現在に到るまで、どのような民族的アイデンティティに基づいて教育を継承していったのか、その変遷を探っています。そして、それは、私たちが生きるいまの時代のなかでどういう意味を持つのか、自分自身に日々問いかけています。

日本語と朝鮮語はよく似ていると言われるけれど
 日本語と朝鮮語の両言語を比べると、たしかに、多くの類似点が見られます。まず、語順が両言語とも「主語+目的語+述語」とほぼ同じならびで、日本語の助詞に対応するものが朝鮮語にもほぼ見出されます。語彙構成も、「固有語・漢語・外来語」(日本語の例でいうと、固有語は「やま、のぞみ」、漢語は「教育」、外来語は「アイドル」など)の三種類で成り立っており、色や数などの表現発想(太陽やリンゴは「赤」と認識し、「百聞は一見に如かず」など数を用いる漢語的表現)も共通しています。
 このような両言語における高い類似性にもかかわらず、両言語間の翻訳実態をくわしく調べてみると、さまざまな興味深い相違点があることに気が付きます。以下、松山を舞台にした夏目漱石の『坊っちゃん』とその朝鮮語翻訳を実例にとってみてみましょう。

言葉づかいの違い―『坊っちゃん』の日本語原作と朝鮮語翻訳

『坊っちゃん』の朝鮮語翻訳の数々

 韓国において『坊っちゃん』の翻訳は、1960年を皮切りに、成人向けや子ども向け、小中学生のための「論述」試験対策用、語注付きの日韓対訳などさまざまな種類が、これまでに何と40種類以上出版されています。
 原作は、主人公である「坊っちゃん」が様々な登場人物と絡み、それぞれの人間関係や対人態度を反映した対話や描写が多様に展開していくところに醍醐味があります。ここでは、特に「坊っちゃん」と「山嵐」との対話をみましょう。

 「山嵐」が、坊っちゃんの赴任した中学校の数学主任教師、「坊っちゃん」が新任教師という人間関係から考えると、社会的には先輩格である「山嵐」が上位者、新米教師である「坊っちゃん」は下位者とみなすのがごく常識的であります。ところが、原作ではこの常識に反し、互いにぞんざいな言葉づかいを一貫して使っています。これは、「坊っちゃん」と「山嵐」が、年齢や社会的地位の上下関係を超えた、本音のぶつかり合いをする間柄ということを示す効果を狙ったものだといえるでしょう。一方で、「坊っちゃん」と教頭の「赤シャツ」は、互いに丁寧な言葉づかいを使っています。これは、「坊っちゃん」の「山嵐」への言葉づかいとは対照的であり、「坊っちゃん」が狡猾な「赤シャツ」に対しては世間体をつくろい、心理的距離を置いているということを表していると考えられます。

 さて、原作におけるこれらの言葉づかいの特徴は、朝鮮語翻訳で一体どのように対応しているのでしょうか。2000年以降の16種類の朝鮮語翻訳を調査した結果、原作では「坊っちゃん」が「山嵐」にぞんざいな言葉づかいを使用しているのにもかかわらず、丁寧な言葉づかいに変化している翻訳が実に半数を占めていることがわかりました。また、頭からぞんざいな言葉づかいで翻訳することに躊躇する翻訳者が少なからず存在し、初めは丁寧な言葉づかいを使いつつ、ぞんざいな言葉づかいへと移行させている翻訳も認められました。このことは、「坊っちゃん」の「山嵐」への言葉づかいについて、朝鮮語翻訳においては、原作の描写とは異なり、丁寧な言葉づかいが優勢であることを示しています。

 さらに、原作では、「赤シャツ」が「坊っちゃん」に基本的に丁寧な言葉づかいを使用しているのに対して、ぞんざいな言葉づかいを使用している翻訳が4割、また、丁寧な言葉づかいからぞんざいな言葉づかいへと移行する翻訳が約2割ほど見られました。このことは、「赤シャツ」の「坊っちゃん」への言葉づかいについても、原作通りではなく、ぞんざいな言葉づかいの割合がわずかながらも優勢であることを示しています。

 この結果は、上位者と下位者との区分を言語使用において明確にしようとする韓国の儒教的な社会通念や言語規範意識が、原作の意図を超えて翻訳に少なからず作用しているということを如実に物語るものといえるでしょう。つまり、翻訳が読み手の文化や慣習に沿うように、往々にして変換されているという実態があるのです。

読者への語り方の違い
―『私は私のままで生きることにした』の韓国語原作と日本語翻訳

 つぎに、大学の授業でも扱ったことのある『나는 나로 살기로 했다(キム・スヒョン著、吉川南訳、邦題:私は私のままで生きることにした)』(韓国語版2016年・日本語翻訳版2019年発行)の韓国語原作と日本語翻訳をみることにしましょう。

「韓国語のエッセイとその日本語翻訳

 この本は、韓国で100万部、日本でもその翻訳が40万部以上売れたベストセラーで、日韓で特に若い人々の共感をよびました。この本からは、現代の韓国社会が抱える、熾烈な競争、社会階層の固定化、政治の腐敗などの厳しい現実のもと、不安に日々さいなまれ、傷ついた人々の姿がリアルに映し出されています。そして、そこに自分の姿を重ね合わせた日本の読者も大勢いたのでした。
 この本は、原著者が、そんなつらい思いをしている人々に寄り添い、「いたわりと応援を詰め込んだ」(本の袖にある文章からの引用)本です。翻訳者は、その原著者の意図を汲んで、日本語に翻訳するときに日本語読者の心にスッと届くような工夫をたくさん施しています。
 工夫の一つに、原作で頻繁に現れた「~すること」「~しなければならない」といった一般的なルールや義務の表現が、「~したほうがいい」「~しよう」「~してあげてほしい」と、親しみをもって読者個人に語りかけているような表現に変わっている点が挙げられます。また、原作で「~だ」といった断定的なものいいが「~な気がする」というように、断定しない言い方に変換されています。これらの変換は、読者への負担感を減らし、その内容をより受け入れられやすくするための工夫です。概して日本語表現としてより受け入れられやすいのは、やはり翻訳にみられる、個人に寄りそった柔らかな表現の方だといえるでしょう。
 その他にも、原作の長いセンテンスは、いくつかに分解するだけでなく、倒置法や体言止めを使って、ポイントを際立たせたり、接続詞や指示語を投入して因果関係をわかりやすくする、順番を入れ替えて時系列を整える、「―」「…」カギカッコなどの投入など、原作の内容をよりわかりやすくする工夫が随所に見られます。

 ここまで、日本語と朝鮮語間の翻訳の実態をみていただきましたが、つまるところ、翻訳とは、原作の意図を十分に汲みつつ、翻訳の読み手に寄り添い、読む者の立場に立って、二つの言語の間で常に葛藤をしながら言葉を組み直していく作業だといえるのでしょう。

在日朝鮮人の教育と言葉
 最後に、私が取り組んでいる、戦後の在日朝鮮人の民族教育問題についてお話しすることにしましょう。
 ほぼ十年前になりますが、アメリカのメリーランド大学を訪れ、そこのホーンベイク図書館所蔵の「プランゲ文庫」を調査する機会が得られました。「プランゲ文庫」とは、終戦後、日本を占領下に置いたGHQ(連合国軍総司令部)が、占領政策の一つとして、すべての日本の出版物を検閲対象としたのですが、この検閲資料のコレクションのことを指します。このコレクションには、戦後日本に残った朝鮮人による出版物ももちろん含まれており、このなかでも、私は、在日朝鮮人児童のための学校教科書や教材を調査しました。
 日本による36年もの植民地支配のもと、朝鮮半島から日本へとおびただしい数の人々の移動があり、終戦時には200万人以上の在日朝鮮人が存在しました。彼らは終戦後の混乱のなか、慌ただしく故郷へと帰還していきますが、日本に残留せざるを得ない人々が生じるようになり、それが、代々、日本に定住する在日朝鮮人を形成していくもととなりました。
 彼らが真っ先に着手したのは、在日朝鮮人の子どもたちの民族教育、とりわけ自分たちの言語である朝鮮語を継承するための教育でした。民族教育は、戦後、朝鮮語を教えることを目的とした「国語講習所」の全国的開設から始まり、1946年以降、教育機関としての体制を整え体系化していき、様々な経緯を経て、現在の朝鮮学校へと展開していきました。
 私がプランゲ文庫で調査した教科書や教材は、国語(朝鮮語)、算数、理科、音楽、地理、美術など多種の科目にわたっていますが、そのすべてが朝鮮語で編纂され、特に朝鮮語の教育を重視していることがわかります。とりわけ、私の心に響いたのは、副教材の童謡集『ピドゥルギ(鳩)』(在日朝鮮人聯盟初等教材編纂委員会編、1946年発行)にあった「우리말 우리글로(私たちのことば 私たちのもじで)」(尹福鎮ユン・ボクチン作)の歌詞で、朝鮮民族のアイデンティを担う言葉の重みを、ずっしりと感じました。以下に、その一部を抜粋して紹介しましょう。

青い鳥は 青いことばで 
 歌を歌い
 青い鳥は 青いもじで
 歌をつくって

 朝鮮人は 朝鮮語で
 歌を歌い
 朝鮮人は 朝鮮のもじで
 歌をつくる

 キヨッ ニウン(朝鮮語の文字の名称) 朝鮮の魂が
 込められ
 ティグッ リウル(朝鮮語の文字の名称) 朝鮮の魂が
 息づいている

 朝鮮語教育を要とする民族教育は、時を経て、現在も日本各地の朝鮮学校で継承されています。朝鮮学校は、朝鮮半島をルーツに持つ、日本で生まれ育った子どもたちが、自分のルーツの歴史を知り、朝鮮語を身につけ、民族的アイデンティティを養い、前の世代や本国、自分たちの住む日本をつなぐ人材を育てる大事な場となっています。その民族教育が行われている朝鮮学校は、グローバル化を謳う日本社会で、高校無償化制度やこのコロナ禍における学生支援緊急給付金給付金制度からも外されているという厳しい現実があります(朝鮮学校の歴史やその実態については、「アイ(子ども)たちの学校」(高賛侑監督、2019年)という優れたドキュメンタリー映画を通して、知ることもできます)。

 以上、私の研究内容の一端をご紹介しました。今後も、日本語や朝鮮語を中心とした言葉をめぐる問題、朝鮮半島の歴史や文化、そして民族教育や民族的アイデンティティの問題を考えていき、皆さんとたくさんの議論ができたら、嬉しく思います。

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