李志炯:原子力発電所という危険要素と被爆者当事者性―井上光晴『西海原子力発電所』と『輸送』の世界―
1.福島が召喚した原発小説
原子力発電所をめぐる論議は、2011年の福島第一原子力発電所事故以降に急変した。核の平和的利用という名目のもとに高効率の持続可能なエネルギー源として見なされてきた原子力発電所(以下、原発)が回復不可能なレベルの災害をもたらす動因になり得ることを改めて実証したのが、3.11東日本大震災と福島第一原発事故であった。これによって想起されたのが、1945年の広島・長崎への原爆投下である。それによって原爆と原発、さらには原爆文学と原発文学が本質的に同じ土台の上に置かれているという認識も促された。原爆による被爆と原発事故による被曝が同じく放射線という危険物質を基盤とすることが喚起されたからである。
その予測不可能性や非可視性のため、看過、敬遠されがちであった原発事故と放射線被曝の問題をいち早く文学化した作家が井上光晴である。井上は1980年代にいわゆる原発小説を書き始めている。『西海原子力発電所』(1986年)と『輸送』(1988年)がそれである(1)。『西海原子力発電所』(以下、『西海』)では、原発付近の町で起きた放火殺人事件の裏面に潜在する原発に対する不安と原爆の傷痕が描かれているとしたら、『輸送』では、核廃棄物の輸送事故によってもたらされた地域の放射線汚染とそれに連鎖する自殺劇を通して被曝の恐怖が如実に物語化されている。1986年のチェルノブイリ原発事故の記憶も褪色した現在、これらの原発小説は、福島以前には〈警告の本〉程度と見なされていたものが〈警告以上の意味〉を持つ作品として再評価されるようになったのだ。
中野和典は「エネルギーの生産で危険な役割を引き受けるのは地方であり、安全に消費するのは都市」というエネルギー産業の図式を小説が喚起することを通して、原爆と原発の被爆/被曝者だけではなく「実は私たちがそれらの問題のまぎれもない当事者」であることを示唆するという重要な指摘を行っている(2)。村上陽子もまた『西海』の贋被曝者を挙げて当事者性を問題視することで同様の論点を指摘している。当事者性の問題は、被爆者は誰か、また証言の資格を持ち得る者は誰かという問いかけに直結するのだ。
本稿は、このような被爆/被曝の当事者性とその条件としての共感の問題に注意しながら議論を進めたい。1980年代に発表された二篇の原発小説が、時間のギャツプを埋めた同時代性を確保し、原発の危険性を喚起させたことは意義があるが、被爆/被曝を直接体験したことのない大多数の人々、すなわち他者たちがいかに被害者の傷と記憶を共有/分有できるのかという課題は、結局は当事者性と共感の問題に関わると思われるからである。
2.ミステリー事件の背後―『西海原子力発電所』
小説『西海』『輸送』に登場する原子力発電所は、佐賀にある玄海原子力発電所がモデルである。全15章構成の『西海』は人間群像といえるほどの多数の人物が登場し、井上光晴の小説特有の重層的、交差的人間関係で構成される。小説のあらすじはこうである。西海原発が位置する地方の波戸で放火事件が起き、男女二人が死亡する。原発に勤めていた夫を数年前に放射線による事故の影響で亡くした水木品子と原発職人の名郷秀次である。加害者や事件の経緯さえ把握しづらい謎だらけの事件である。警察は内縁関係にある男女の自殺劇として強引に事件を片付けようとするが、反対証言が出て事件は再び迷宮に陥る。犯人の実体、事件の背景などをめぐって警察が役割を果たせない中、魚市場に勤める小出芳朗と地域劇団の有明座を率いる浦上新五などが事件の真相を追う。結局、失恋した鳥居美津という女性が名郷秀次を自分の恋人であった浦上耕太郎という演劇団員と誤認して放火したことが彼女自身の手紙で明かされるが、にもかかわらず事件の全体像は謎のまま小説は終わってしまう。注目すべきことは、小説では深刻な原発事故は起こらないこと、それでも原発にまつわる人間の不安や恐怖、欲望や葛藤に溢れていることである。そして正体を現すのは長崎に投下された原爆と西海原発の予期せぬ接点である。
多少蓋然性に乏しいプロットとはいえ、原発に対する不安と恐怖は漠然とした感情に基づく根拠なしの情動ではあるまい。壊滅的事故こそ起こらないにせよ、小説の中では原発に纏わる出来事が多々発生し、その処理をめぐって葛藤的な状況が露になる。出来事の流れに沿って挿入された劇団有明座の演劇《プルトニウムの秋》がまぎれもなくこの問題を再現している。《プルトニウムの秋》は、井上が1978年に発表した戯曲『プルトニウムの秋』の内容をそのまま作中劇として移したものである。原発作業の後、体の異常な症状に悩まされる一人の男性が原発技師の自宅を訪ね、被爆者手帳を貰えるよう協力を要請しながら揉め事を起こす。しかし、原発担当技師は、作業証明書を発給すべき主体は労働者を直接雇った下請け企業の生田工務店であるという理由から発給を拒絶する。生田工務店もまた作業を発注した原発もしくは更なる下請け業者のほうに責任を転嫁するだけなので、生田工務店の正社員でもない労働者は途方に暮れる。危険作業であればあるほど、事故が発生した場合、外注化を通して責任の所在が不明瞭になるため、その責任は他に擦りつけられ、結局は労働者本人がその被害をひたすら背負うしかない搾取の産業構造がここで確認できる。これこそ、いわゆる〈危険の外注化〉であり、〈死の外注化〉であろう。
安全を旗印に掲げた原発が、逆に危険を顕在化させる時、地域の不安と恐怖は増幅する。被曝による1次被害、事後支援の度外視と治療システム不備という2次被害、その背後に潜むのは紛れもない〈国家〉の存在である。その上、国家なるものは、安全対策と事後支援を拡充する努力とは裏腹に、ある措置を地域住民に対して試みる。原発に対する世論を調査し批判者を選り分ける〈査察〉がそれである。放火事件の犠牲者の一人であった原発職人の名郷秀次は、実は原発の周辺地域の世論調査と批判的な意見を収集する業務を担当した原発の情報員であったのだ。
このような観点からすると、原発事故の準当事者の水木品子と原発の査察担当者の名郷秀次の二人がともに放火殺人の犠牲者になった小説のプロットは意味深長である。心中の同伴者として似合わない二人が一見、恋人同士の心中に見せかけられるように死んでいったミステリー事件の裏側で、彼らを強引に関係づける媒介となるのは原発であり、また国家と資本の結託である。言い換えれば、〈国家と資本による共同幻想〉(3)の産物として産まれた原発技術の手段及び対象として、人間が墜落する様相が二人の謎多き死亡事件の本質といえよう。ここでさらに放火の実行者が長崎の女性被爆者であったことを思い起こせば、原爆と原発を貫いている不穏な〈国家〉なるものの実体をあらためて直視せざるを得ないはずである。
3.潜在する危険と現実化された恐怖の連鎖―『輸送』
『輸送』は、『西海』が発表された2年後の1988年3月から10月まで『文学界』に連載された小説である。そこで描かれるのは、核廃棄物輸送事故による放射能汚染とその莫大な後遺症の諸様相である。その被害は釜浦周辺に居住、生息しているすべての存在に関わってくる。〈キャスク(cask)〉と呼ばれる核廃棄物貯蔵容器がトレーラーごと海に落ちたことが大災害の発端であった。周辺地域一帯は放射能汚染状態に陥り、住民には3週間の緊急避難命令が出された。それから3週間後、もとの居住地域に戻った住民たちが目撃したのは、これまで経験したことのない奇怪な世界であった。体に原因不明の症状を訴える人々が増え、謎の死亡事件が相次ぐ。鶏が斃死し、海辺には放射能に汚染された魚を食べた猫の群れが無残な様子で暴れながら死んでいく。あたかも地獄図を彷彿させるように変わり果てた環境の中で、住民たちはいつ自分も襲われるかもしれない放射線被曝の恐怖に慄きながら不安な日々を過ごすようになる。原発周辺地域に潜在する不安は恐怖となり、平穏な日常を狂わせることになった。作家の井上に言わせれば、『輸送』の世界は「近未来小説」でも「SF」でもなく、「この作の主題は文字通り「明日」にかかわる「今日」そのものの現実」におかれている(4)。当初、墜落事故の原因とされたのは運転手の自殺であったが、その後「脳障害による発作的な失神」(p.234)による事故ということに訂正された。
放射能汚染以後の『輸送』の世界では、「一種のパニック状態」に陥った登場人物たちによる「普段考えられぬような事件」(p.288)が相次いで起きる。潜在化する危険から現実化した放射能の恐怖がより大きい不安と恐怖を駆り立てる。そして野火のように燃え広がって、人から人へと伝染していく。肉体と精神という生の根幹がともに崩壊する様相が描かれる。災害の現実は脆弱な存在により過酷である。老人、病者、女性、子供、動物に至るまで年齢、健康、性別、非人間などの観点から、相対的に弱者である存在の生は環境的な圧迫により脆弱である。不安と恐怖についても同様である。理由不明の自殺で死を迎える人々が老人と病者に集中していることもそのためであろう。
小説末尾のエピソードはその絶望的な出来事の最たるものである。先に自ら死を選択した水口老人と同じ老人ホームの世話になっていた3人の老人が、海に入水していく場面である。その海辺は水口老人が入水した場所でもあった。放射能後遺症の苦痛とそれ以上に過酷な孤独に苛まれながら死んでいくよりは「人間として死にたい」(p.338)というのが、彼らの最後の望みであった。不思議にもその夜の月は「長崎に原爆が落ちる前の晩」の「赤い月」(p.337)に似ていた。このように放射能災害として現実化した原発の危険性は死の恐怖よりも恐ろしい情動として脆弱な存在を激しく責め立て、死の連鎖へと導く。原爆投下の前夜、長崎の夜空に浮かんだ「赤い月」のデジャヴュのように浮いたその「妙な月」(p.337)は、まるで黙示録のような終末的雰囲気を醸し出し、原爆と原発の繋ぎ目として刻印されている。「人間の抹殺であると同時に地球規模の「自然環境」破壊」(5)と定義されることもある、広島と長崎への原爆投下と原発放射線事故の同質性を喚起させる。これはまた戦争やそれに準ずる大量虐殺ではなくても、様々な産業と科学技術の発展から引き起こされる「国策と犠牲の連鎖」(6)の例示でもあるのだろうか。
4.被爆者〈になる〉二つの様相―被爆者は誰か
『西海』で人物間の葛藤と欲望を嗾ける震源となるのは、原爆/原発の被害者をめぐる被爆/被曝についての真偽である。長崎の被爆者として知られた劇団有明座の団長浦上新五、団員浦上耕太郎が二人とも贋被爆者であることが明かされたことをきっかけに、被爆の当事者性とアイデンティティに関する倫理性が問題視される。とりわけ有明座はそれまで原爆/原発への批判を問題意識として掲げ、〈被爆者の劇団〉をモットーとしてきたので、団長が贋被爆者であったことは団員たちに大きな衝撃を与えた。村上陽子は「有明座に複数存在していた贋被爆者という存在はおそらく「被爆者による原爆表象」の「限界性」を示す以上の意味」を持っており、その理由は「贋被爆者という存在が暴き出されるとき、原爆の当事者とはいったい誰を指すのかという問いが逆説的に浮かび上がってくるためだ」と論じたことがある(7)。ここで村上は紛れもなく〈当事者性〉を問題視しており、その問いは〈果たして被爆者とは誰なのか〉という問いに収斂される。
団員のなかでも自分自身が被爆者である有家澄子の怒りと背信感は特に大きかった。団員の浦上耕太郎が原発情報員の名郷を通じて知らされた団長の正体は同じ被爆者として同志感と連帯感を強く持ち合わせていた澄子にとって非常にショックであったはずだ。それは被爆者としての連帯感の解体であり、被爆者の当事者性の懐疑でもあった。 広島/長崎の原爆体験は当事者において脳裏からどうしても離れない凄惨な体験であろう。その経験と苦痛は他の出来事とは次元が異なるため、同等には比べられない通約不可能/共約不可能(incommensurability)なものであるに違いない。その経験を共有していると信じていた存在が一瞬で共約不可能な他者に急変したのだ。
坂本英二は当事者、当事者性という表現が「ある体験世界を特別視して閉鎖的に囲い込み、越境不可能な「内側」という領域を切り分けかねない」(8)と指摘しつつ、当事者性という問題の複雑性を指摘しているが、ここでの越境不可能性は共約不可能性と相通じるものであろう。大江健三郎に言わせれば、「広島について沈黙する唯一の権利を持つ人たち」(9)は当事者である被爆者である。ここで注意すべきは、広島について発言することと被爆者として偽装することは異なるということである。その観点からすると、浦上新五が被爆当事者でもないにもかかわらず、原爆に対して沈黙どころか逆に演劇の形で積極的に発言してきたこと自体は決して間違っていない。問題は、「人間という悪の意志の象徴」であり、「戦争というものの悪の絶対値」(10)でもある原爆に対して、いかなる理由であれ、被爆した当事者を偽装し自任してきた行為であろう。それは、特に被爆した当事者としては謝罪程度で許されるはずもない究極の偽善として受けとめられるようになる。
もう一つ注目に値することは、贋被爆者に向けられる真の被爆者の態度の差である。有家澄子と放火の容疑者である鳥居美津の間でその差異が指摘できる。有家澄子はいくら善意に基づく行為といっても真の被爆者と贋被爆者の間には到底埋めることのできない巨大な溝があると考える。その反面、鳥居美津は異なる。というのは、鳥居美津が交際相手であった浦上耕太郎を恨み放火したのは、彼の贋被爆者ぶりが主なる動因ではなかったと思われるからである。
私のしたことは何だったのか。一人の人間が被爆者でもないのにそれを看板として生きて行く。果たしてそれが罪なのか、と問われれば私の足はすくみます。許せなかったのは、お前を捨てた男であって、被爆者であろうとなかろうと、関係ないではないかという声がきこえてきます。(p.147)
また、もう一つの違いは、有家が幼い頃原爆の惨状を直接体験した被爆者であるのに対して、鳥居は母の胎内で被爆した胎内被爆者ということである。このように真の被爆者と偽の被爆者という線引きを越えて、直接被爆者、胎内被爆者、贋被爆者というふうにより細分化されるアイデンティティを通して浮上する一つの事実は、被爆者を定義あるいは確定する当事者性の問題において確固たる唯一の正解はないということである。言い換えれば、当事者性の不確実さと恣意性となるだろう。悲劇的にも最も〈純粋なる〉被爆者たちは、広島と長崎の爆心地で霧のごとく消されてしまった死者たちだからである。
これに比べて、『輸送』の当事者性の問題は、『西海』のそれと多少文脈が異なる。『輸送』は、放射線漏出事故という大災害によって被曝に対する不安と恐怖の情動が次第に人々の間で感染、伝播されていく様相を赤裸々に描写し、人間の物的、精神的脆弱性を露にした小説といえよう。事故が起きた周辺地域の住民、そのなかでも老人、病者など相対的な弱者は、自分も被曝したかもしれないという不安で悩まされる重苦しい日々を送るようになる。腹痛、下痢、脱毛などの症状が多少でも出れば、直ちに放射線被曝を疑う。外部被曝でなくても、内部被曝の可能性を強く執拗に疑う。また、客観的な被曝の程度確認とは無関係に、自ら被曝者であることを自認してしまう。老化、病、貧困、孤独など当初からも苦しんでいた生の桎梏に付加された被曝の不安は、彼らを抜け出すことのできない絶望の淵に立たせる。『西海』の贋被爆者がそれぞれの理由で被爆者を〈自任〉したとすれば、『輸送』の弱者たちは不安のあまり被曝者を〈自認〉してしまう。前者が積極的意志で被爆者であるというアイデンティティを堅持したとすれば、後者は諦念の心境から被曝者であるというアイデンティティを受容してしまう。被爆/被曝者であることを〈信じ込み〉、〈受け入れる〉様相において両者の姿勢は対照的であり、明らかに差異を露呈している。
関礼子によると、当事者と当事者性は異なる。社会学的な観点を借りると、当事者とは「~である(be)」存在だけでなく、普遍的な価値を生み出していく「~になる(becoming)」という生成の主体である。それに対して、当事者性は当事者として認められるべき正当性を表現し、「~になる」主体の幅を広げていくことである(11)。周知のように、このような観点はジル・ドゥルーズによる〈~になる(becoming/devenir)〉という概念に基づいている。その生成変化の哲学は、よく見知っている既存の社会から離れて、たえず異なる存在になっていくことである。固定化された同質性の殻を破って変化を求める脱領土化の行動学が、〈~になる〉という生成変化の方法論といえる。同じ脈略からドゥルーズは、この生成変化の方法論を「差異を横切る実践的活動」としても定義しているが、これは小説『西海』の贋被爆者が被爆者になるという試みを積極的に評価できる根拠となり得るのではないだろうか。彼らが当事者として被爆者になることは、紛れもなく〈マイノリティ〉になることの一例だからである。
こうした当事者性についての思惟は、当然ながら原爆だけではなく原発事故にも有効であろう。福島原発事故から改めて確認されたように、目に見える可視的な被曝者/被害者だけではなく、潜在する不可視的な被曝者/被害者も多数存在するからである。放射線汚染の後、あたかもゴーストタウンになってしまった地域に住む『輸送』の登場人物たちが実際にそうである。加害者と被害者が存在するのみで「公害に第三者はない」(12)と断言した環境学者の宇井純や、「公害が起こって差別が起きるのではなく、差別があるところに公害が起こる」と力説した水俣病研究者の原田正純などの主張(13)が、方法としての当事者性の問題に省察的観点を提供する。原爆、原発事故を含む国家的災害や産業災害において加害者でなければ被害者にならざるを得ないという主張は、『輸送』における脆弱なる存在にもそのまま符合する。
以上の考察から、共感としての当事者性を獲得する典型的な事例を、井上光晴の原発小説『西海』と『輸送』から確認することができた。『西海』では被爆者を〈自任〉する当事者性、『輸送』では被曝者の〈自認〉としての当事者性である。両者の間に差異は存在するが、原爆/原発の危険性と致命性、そして被害の不可逆性をリアルに警告するという点において、二篇の原発小説は福島の余波が依然として払拭できていない現在もなお、省察の対象として注目に値する。
5.結びに
井上光晴の原発小説である『西海』と『輸送』の重要な意義の一つは、原爆被爆と原発被曝がその致命性、不可逆性において同質のものであることを明らかにしたことである。その中で原爆と原発の放射線被害者、すなわち被爆/被曝者の真偽のほどは小説の中で大きな比重を占める。『西海』では広島/長崎における原爆の直接被爆の可否が、『輸送』では核廃棄物の放射線被曝の可否が人物間の葛藤と不安の種になる。つまり被爆/被曝の当事者性が問われるのだ。『西海』では贋被爆者が被爆者を〈自任〉し、『輸送』では脆弱な存在である者たちが被曝者を〈自認〉することによって当事者となる。前者は被爆者に対する共感のなかで、後者は被曝に対する不安のなかで自ら当事者〈になる〉選択をする。その選択の結果は命の大事さを伝える努力と命を諦める絶望との両極に分かれることになるのだが、これこそが原爆/原発被害者の当事者性を構成する相反した本質であることは否めない。破局も救済もひたすら与えられるものではなく、主体の選択によるものであり、主体としての当事者は、同一性と固定性の外部に出て差異横断の脱走に臨むすべての存在であり得ることを井上光晴の原発小説は思い起こしてくれる。
(韓国・淑明女子大学校教授)
注
(1)『西海原子力発電所』、『輸送』の本文引用は、井上光晴『西海原子力発電所/輸送』(講談社、2014年)を底本とし、末尾に頁数を記した。
(2)中野和典「原子力発電所」、川口隆行編『原爆を読む文化事典』八弓社、2017年、p.368
(3)佐藤嘉幸・田口卓臣『脱原発の哲学』人文書院、2016年, p.71
(4)井上光晴「『輸送』のあとがき」『西海原子力発電所/輸送』、pp.342-343
(5)黒古一夫『原爆は文学にどう描かれてきたか』八朔社、2005年、p.6
(6)山口研一郎『国策と犠牲』社会評論社、2016年、p.15
(7)村上陽子『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』インパクト出版会、2015年、p.190
(8)坂本英二「同じ〈場所〉にいること―『当事者』の場所論的解釈」、宮内洋・今尾真弓編『あなたは当事者ではない―〈当事者〉をめぐる質的心理学研究』北大路書房、2007年、p.153
(9)大江健三郎『ヒロシマ・ノート』岩波書店、1965年、p.113
(10)大江健三郎『ヒロシマ・ノート』、p.116
(11) 関礼子「共感の当事者性・生成する主体の当事者性・方法としての当事者性」、『民博通信』163号、2018年、p.22
(12) 宇井純『公害に第三者はない(宇井純コレクション〔2〕)』新泉社、2014年、p.63
(13) 原田正純『水俣病と棄民たち』岩波書店、2007年、p.85