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神楽岡幼子:黄表紙『竜都四国噂』に見える二代目市川八百蔵 ―江戸戯作に取り入れられた役者のうわさ―

 黄表紙『竜都四国噂(たつのみやこしこくのうわさ)』は安永九年(1780)に刊行された。安永六年に話題となった「とんだ霊宝」と称される細工見世物の話題、当時評判の身振声色芸人松川鶴市の話題等、さまざまな話題の取り込みが見られる作品であるが、今回は歌舞伎役者、二代目市川八百蔵(俳名、中車)の話題に注目してみようと思う。なお、『竜都四国噂』は国立国会図書館デジタルコレクション、国文学研究資料館新日本古典籍総合データベースなどのサイトで閲覧可能である。詳しい内容については、古庄るい「朋誠堂喜三二作『竜都四国噂』翻刻と注釈」(『学習院大学大学院日本語日本文学』十八巻、学習院大学大学院人文科学研究科日本語日本文学専攻、二〇二二年三月)が参考になる。
 さて、『竜都四国噂』には次のような場面がある。乙姫は八百蔵によく似た亀に思いを寄せるが、乙姫に一目惚れした猿は亀を追い払い、本物の八百蔵に化けて、「それがしは日本にて市川八百蔵と申す者、乙姫様を見ぬ恋にあこがれ、日本をば死んだ分にして遙々と参りました。」(引用にあたっては適宜、句読点を付し、漢字に改めるなどした。)と名乗って、門番の海月に取り次ぎを頼む。海月は「自体、亀にお気のあるのも中車に似たから」として、乙姫に取り次ぐが、翌朝、猿のつけていたお面と鬘が取れて、猿の正体がばれ、乙姫は病気になってしまう。思いがけない展開が続くが、最終的には乙姫の病は癒え、めでたく亀と結ばれる。
 二代目市川八百蔵は当時、人気の歌舞伎役者であったが、安永六年七月三日、四十三歳という若さで亡くなってしまう。人気の歌舞伎役者や過去の名優の姿を黄表紙に描くことは常套の方法であるが、『竜都四国噂』が刊行された安永九年には八百蔵が亡くなって二年半が経とうとしていた。『竜都四国噂』に八百蔵が登場することになったのはどういう事情によるものなのであろうか。
 二代目市川八百蔵は「此八百蔵、其頃役者中の美男にて。婦女として贔屓にせざるはなく」(『蜘蛛の糸巻追加』(嘉永三年(1850))と記されたように、女性の贔屓が多く、八百蔵の墓所には女性の贔屓たちが押し寄せ、近辺では樒が売り切れるほどであったという。追善黄表紙『中凋花小車(なかにしぼむはなのおぐるま)』や『江戸贔屓八百八町』、洒落本『ことぶき草』、『草白露(くさのしらつゆ)』など追善の書も安永六年中に種々出版された。死絵と呼ばれる追善の役者絵もすぐ売りに出されたが、「其売たる事、日々千万の数を以テし、彼贔屓なる女等此画を求めて朝夕香花手向、懇に回向す。甚敷者は泪を流し声を出して悲しめり」(『燕雀論』寛政元年序)というありさまであったという。そのような中、江戸のちまたに八百蔵の幽霊が吉原に通って来るといううわさが広がったらしい。
 洒落本『十八大通百手枕(じゅうはちだいつうひゃくたまく)』(安永七年)の中で当時の話題として八百蔵の幽霊の吉原通いが語られ、洒落本『大通秘密論』(安永七年)にもその一件の取り込みが見られる。このあたりの事情については、郡司正勝「役者説話の形成―市川八百蔵の場合―」(『日本の説話5 近世』東京美術、一九八一年)に詳しいが、『十八大通百手枕』では次のような話題が語られる。
 吉原の遊女花扇に通う山口十蔵が中車に似ていたため、廓では中車と誤り、本人も中車のふりをして通い続けるが、やがて、花扇には事実を打ち明ける。そのうち本物の中車は病没する。十蔵は変わらず通ってくるが、夜遅くに来て、朝早くに帰るので、これを見かけた人は中車の幽霊だとうわさした。
 『大通秘密論』では、今助六と呼ばれた十蔵が中車に似ていたため、廓では八百蔵かと疑っている。遊女揚巻に問われた十蔵は「八百蔵でなしとも、八百蔵の気で心やすく」と語り、揚巻は「たとへお前が中車でも、中車でないにして逢いゝしやう」と受けて、十蔵は揚巻のもとに通うことになる。そして、「夕部の露に通ひきて、あしたの霧に別れしを、脇目にこれを見まがひて、中車なりと評せしが、過にし六月末つかた、中車この世をさる後は、中車が幽霊、揚巻に通ふ/\と風聞せしは、此まちがひといふ事さ。」と、『十八大通百手枕』同様の中車の幽霊の吉原通いが語られる。
 これら洒落本で語られたところと『竜都四国噂』をくらべると、『竜都四国噂』が中車の幽霊の吉原通いの風説を踏まえていることに気づくであろう。中車に似た別人(『竜都四国噂』では中車のお面をつけた猿)が女(乙姫)のもとに忍んで来て、中車と思いきや、実は中車ではなかったという展開は、洒落本と同類のものである。『竜都四国噂』が刊行された時には中車は亡くなった後であり、中車に化けた猿は、先に引いたように「日本をば死んだ分にして遙々と参りました」と語っていて、幽霊の身で女のもとに通う中車という型が読み取れる。
 『十八大通百手枕』の十蔵のモデルは十八大通の一人、大口屋暁雨で、当時の助六のモデルとされており(前掲郡司論文、山口剛「助六の成立とその変形」(『歌舞伎研究』大正十五年七月号、八月号)等参照。)、八百蔵は亡くなる前年に助六を演じて大当たりをとっていた。助六を接点に、十蔵と八百蔵のイメージが重なり合う。『大通秘密論』でも二人の助六が登場していた。同じように、『竜都四国噂』では役者の八百蔵と猿の八百蔵という二人の八百蔵が意識されている。洒落本から黄表紙へ、二人の八百蔵という趣向がかたちを変えて引き継がれていく。
 そして、もう一人、『竜都四国噂』に登場する身振声色の芸人松川猿市も八百蔵と無縁ではない。松川猿市のモデルとなった松川鶴市は、当時、歌舞伎役者の身振声色で評判をとっていた芸人で、中車の身振声色がうまかっただけではなく、鶴市自身が中車とよく似ていたという。『蜘蛛の糸巻』(弘化三年(1846)序)には「其頃、市川八百藏とて婦人にはことさらひいきにあひし立者に、此鶴市常もよく似たるゆゑ、顔をつくり、衣裳を飾り、其声色をつかへば、八百藏こゝに在るが如し、是鶴市がはやりし所以なり」と伝えている。『宴遊日記』を見ると天明四年(1784)三月二十三日の条に鶴市の「古仲車」の芸を見た記録がある。鶴市の芸は中車没後も在りし日の姿をしのぶよすがとなっていたようである。また、鶴市に関して「八百蔵が其処へ出て来た様だつたので、御婦人方の御ひいきが一通りではなかつた。中に蓮葉なのがゐて、本物の八百蔵ぢやあ高いから、是で間に合せて御座敷をかける」云々といった逸話もあったという(松本亀松「市川八百蔵(下)」『江戸生活研究 彗星』昭和二年十一月号)。逸話の出典は不明ながら、八百蔵に似た亀に思いを寄せた乙姫に通じるようなはなしである。
 さて、『竜都四国噂』では猿市の小屋の木戸口の様子や舞台が描かれているが、『宴遊日記』安永六年四月三十日の条に「鶴市を問へば中洲へ引越せし由」と見えるように、その頃、鶴市は中洲新地で芸を披露していた。中洲新地では小屋を建てての興行であったが(今岡謙太郎「江戸の芸能―身振り物真似芸の展開」『国文学解釈と鑑賞』二〇〇三年十二月号参照。)、その様子がうかがえる場面となっている。
 『竜都四国噂』に描かれた猿市の舞台には役者似顔のお面が掛けられており、猿も八百蔵のお面でもって八百蔵に化けていたが、役者似顔のお面というのも当時実際にあったものである。『宴遊日記』には「雷子の面」(安永五年十月十四日)、「里紅・新車面」(安永八年十一月二十日)など、人気役者のお面を手に入れた記事があるが、安永五年十月二十八日の条に「仲車の面」についても記されている。『竜都四国噂』で猿がお面によって八百蔵に化けようとしたのも、唐突な設定ではなかったということである。
 舞台では「今は八百蔵じや。次は団十郎、親玉じや。」として、猿市が三代目市川海老蔵(四代目市川団十郎)の物真似を披露する様が描かれる。古庄るい(前掲論文)も「親玉」とあることから、「木場の親玉」と称された四代目団十郎だとするが、何より描かれた団十郎が四代目団十郎の似顔になっている。特徴的な二重瞼、そして年齢を重ねた目尻のしわがしっかり描かれている(岩田秀行「黄表紙『明矣七変目景清」攷』―「景清が目姿」をめぐって―」(『近世文芸』五十二号、一九九〇年六月)参照)。しかし、『竜都四国噂』の時代は五代目市川団十郎の時代である。しかも、三代目海老蔵は安永五年度をもって引退し、安永七年二月二十五日にこの世を去っている。亡くなった八百蔵に合わせ、亡くなった団十郎の登場となったのであろうか。『竜都四国噂』刊行の前年、安永八年であれば、八百蔵の三回忌であり、四代目団十郎の一周忌にあたる。ここで気になるのは、作中に描かれた竜宮での開帳を知らせる高札である。高札には「来亥四月朔日ヨリ」と見える。竜宮での開帳は安永六年に評判をとった「とんだ霊宝」を踏まえた脚色であるが、安永六年は酉年で、安永八年がちょうど亥年にあたるのである。『竜都四国噂』は安永八年を意識した刊行物であるように思われる。ただし、版元の蔦屋は安永九年から黄表紙の刊行を開始しており、『竜都四国噂』も安永九年の新版として知られている。蔦屋刊行の黄表紙『伊達模様見立蓬莱』(安永九年)に「子年新版」として「竜都四国噂 上中下」と見えるからであるが、『竜都四国噂』には袋入本もある。これはいつ出たのであろうか。刊行事情については、さらに考えて行きたいところである。

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