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神楽岡 幼子:役者評判記の読者 ―江戸中期の一様相―

役者評判記とは
 役者評判記とは江戸時代初期から明治初頭にいたるまで毎年出版された歌舞伎役者に対する評判を記した書物である。冒頭には役者目録として「立役之部」「敵役之部」「若女形之部」といった役柄ごとの部立を設け、部立ごとに役者名が一覧されるが、これは役者評判記の目次の役割を果たすと同時に、役者の配列順は部立ごとの役者のランキングにもなっている。また、それぞれの役者に対し「上上吉」や「上上」といった評点に当たる「位付」も記されている。役者目録に続く内容は、劇評ではなく役者評であるところに特徴があるが、複数の話者による合評形式で評判を繰り広げるという体裁で書かれる。

役者評判記と役者
 当の役者本人が役者評判記をどう見ていたかが気になるところである。しかし、詳しい資料はほとんど見当たらず、一例のみであるが次にあげておく。天明七年三月、江戸役者である初代中村仲蔵(秀鶴)初の大坂上りの際に出版された役者評判記『日出扇』が出版書肆の一つである沢村庄五郎(沢村油店)から中村仲蔵の手元にも届けられた。『秀鶴随筆』を見ると「江戸堺町沢村油店より、大坂評判記参申候、日出扇、大慶仕申候」とあり、『日出扇』の出版を喜ぶ仲蔵の姿がうかがえる(注1)。『日出扇』は「江戸御贔屓様より仲蔵が芸評を微細にこしくれよと催促度々ニ及びしかば」とその出版事情が記されるように、贔屓の声を受けての特別な出版物であったので、秀鶴本人にとっても喜ばしいものであると同じに、秀鶴贔屓の読者たちも喜んで『日出扇』を読みふけったことであろう。

役者評判記と贔屓
 つねの役者評判記についても、読者は自らの贔屓の役者のランキングや位付に一喜一憂し、役者の動向や舞台の評判に胸躍らせた。例えば、洒落本『祇園祭烑燈蔵』(享和二年刊)を見ると、奥女中たちが一部屋に集まって役者評判記に夢中になる様子が描かれている。「中車はね、大上々吉の上に至といふ字が付ました」と贔屓の役者、中車(三代目市川八百蔵)の位付のランクアップを喜んだり、「女形の巻軸は巨撰で、ぐにやは路考が次にゐます」と巨撰(二代目小佐川常世)や「ぐにや」(初代中山富三郎)、路考(三代目瀬川路考)のランキングに注目するなど、役者評判記を囲んで役者の評判が繰り広げられる(注2)。
 そのような奥女中の様子を詠んだ川柳「黒吉になつたとさわく長つほね」(『川柳万句合』、安永八年刊)もある。「黒吉」はそれまで白抜きで記されていた位付の「吉」の字が黒字で記されるようになったことをいい、役者の評価の上昇を意味する。長局の奥女中たちは役者評判記を見て、贔屓の役者のランクアップに喜び騒ぐのである。
 洒落本『当世左様候』(安永五年初春序)では実際に出版された江戸版役者評判記を話題にする場面がある。作中に書名は明記されないが、話題になっている位付をみると、安永五年正月に出版された役者評判記『役者通利句』のものと一致している。『当世左様候』では登場人物たちが見物してきた舞台や役者の話題に興じる中、「今度の江戸評を御ろふじたか」と話題は最新刊の役者評判記へと展開するのだが、問われた人物は「アイ見ましたがアレハ人々(てん/\)の咄しを書た様な物さ」と少々納得が行かない様子で語り出す。まず、「わたしなだアひいきもないが」と客観的な立場での発言だと断ったうえで、「まづ錦考が黒吉でなければ雷子が黒吉は附られませぬ 秀鶴が黒吉にはまだ余程間が御座りませう 其上弓矢のほうびとは」と言う。錦考(四代目松本幸四郎)の位付は「吉」の字の最終画が白抜きであるのに雷子(二代目嵐三五郎)には黒吉が付され、秀鶴(初代中村仲蔵)については、黒吉もまだ早すぎると思うのに特別な加点にあたる「弓矢のほうび」も付されているのはどうだろうというのである。それに対して「アリヤアむつかしい芝居を当テタ褒美サ」と仲蔵を贔屓する発言があったり、「錦考もちつと狂言を茶にしねいけりやアいゝねエ」と言う人がいれば、それを受けて「そればつかりて白ミがかゝつているのさ」などと幸四郎の洒落が行き過ぎのために黒吉とならず、「吉」の字の最終画に白抜きが残っていることを指摘する発言があったりなど、役者評判記を見ながらの芝居ばなしに盛り上がる。

 『狂歌活玉集』(元文五年八月刊)には以下のような狂歌も載る。
 申のとしの役者評判の本に菊之丞を二番に評せしと立腹せし人へ
 評判帳にどう有とても所作事は菊之丞ほどよきものはなし  可由
 菊之丞は当時人気の若女形、初代瀬川菊之丞のこと、「役者評判の本」「評判帳」とあるのは役者評判記のこと。「申のとしの役者評判記」とあるのは元文五年正月刊『役者恵宝参』に相当し、事実、菊之丞は若女形の第二位の位置に置かれている。第一位に置かれたのは好敵手の佐野川万菊であった。狂歌の詞書によると、『役者恵宝参』を手にした菊之丞の贔屓はそのランキングに納得が行かず、腹を立てたというのである。可由の狂歌は収まらない贔屓に対し、菊之丞の得意とする所作事(歌舞伎舞踊)については菊之丞を置いてほかはいないではないかとなだめる一首になっている。
 与謝蕪村も芝居が好きで、書簡において役者評判記風に句を評したこともあった(注3)。「△竹護組出て曰……△頭取曰く…」(明和八年五月十四日春泥宛書簡)と役者評判記の会話体の合評形式を真似ているところを見ると、蕪村も熱心な役者評判記読者の一人であったと思われる。役者評判記もどきに役者評を述べ立てることもあった。「奥山例のごとくさしておもしろき事も無之、只見え一通り也。舎柳は甚あしく候。」(安永八年正月二十五日几董(推定)宛書簡)云々と奥山(初代浅尾為十郎)や舎柳(初代中山来助)を始め、その他大勢の役者に対しなかなか手厳しい評をくりひろげることもあれば、「今舎柳甚おかしく、さりとは色事師のいやみをすて候て、さく/\ といたし候所、甚荷擔に候」(天明二年十一月五日几董宛書簡)などと誉めることももちろんあった。役者評判記を読むことにあきたらず、自らが評判を語ることも芝居好きのなせるわざであろう。

役者評判記と書肆
 役者評判記に対して色々の注文もつけるが、それでも芝居好きの読者たちにとって役者評判記は魅力的な出版物であった。出版書肆も読者に対する宣伝を怠らない。役者評判記には「右之本来ル三月節句より出し申候 其節御求御覧可被下候」(安永二年正月刊『役者一陽来』掲載「役者清濁」広告)といった次の新刊の案内があったり、「三芝居役者評判記 元禄年中より宝永正徳時代江戸四座の評判記御座候間 御もとめ可被下候 もつともかし本にもいたし候」(寛政八年冬刊『当役者評』掲載広告)という形で、役者評判記が誕生して以来の既刊の役者評判記の購入を呼びかけたり、貸本の宣伝をするなど、芝居好きの読者に働きかける。
役者評判記の価格についてはよくわからないが、それなりの値段がしたのであろう。先に取り上げた洒落本『祇園祭烑燈蔵』でも一点の役者評判記にたくさんの奥女中が群がる様が描かれていた。貸本については、明和年間に出版された娘評判記『あつまの花軸』に「役者評判記は見るばかりが百銅のいた事 まれに出る吉原ひやうばんきは見た跡が百疋のいた事」と見えるのが参考になろう。吉原の遊女評判記を見たあとは吉原に繰り出すことになって、その出費は百疋となろうというのだが、百疋は一両の四分の一。役者評判記は「見るだけ」とあるので、購入するのではなく貸本を利用するのであろうが、百銅、すなわち百疋の十分の一で見ることができたらしい。

多くの読者の存在が期待される役者評判記は書肆にとっても重要な商品である。先述の『日出扇』は大坂の敦賀屋吉右衛門と江戸の沢村庄五郎による中村仲蔵の活躍を寿いだ例外的な出版物であるが、役者評判記の定型を確立し、出版を継続してきた老舗である京の八文字屋八左衛門は他書肆による役者評判記の出版については神経をとがらせていた。例えば、大坂の書肆綿屋喜兵衛が中心となって出版された『役者勇兵揃』(寛政九年三月刊)の場合、八文字屋版役者評判記の定型である三巻構成をとらず四巻とし、合評形式の役者評にはしないなど、綿屋側は八文字屋版との差異を意識したようではあるが、当然のごとく八文字屋から本屋仲間にクレームが出され、綿屋は誤証文(詫び状)を出すことになったという本屋仲間の記録が残る(注4)。ちなみに『役者勇兵揃』末尾の書肆連名には江戸の蔦屋重三郎の名前も見える。おそらく売り広め所として加わったものであろうが、『役者勇兵揃』の出版が寛政九年三月。蔦屋重三郎が没したのは同年五月六日であるから、あるいは、これが蔦屋重三郎の最後の仕事であったのかもしれない。
 さて、翌年にも綿屋喜兵衛を中心として役者評判記(寛政十年正月刊『役者舞台粧』)が出版されているが、当然、再び八文字屋からクレームが出され、以後、綿屋は役者評判記の出版から手を引くことになる。八文字屋としては元禄から続く役者評判記出版の権利をぜひとも守らなければならなかった。八文字屋版の『役者見物左衛門』(寛政十年三月刊)「発端」においても「近頃は何か紛らはしき評判が出て」云々と、他書肆による役者評判記を非難し、「板元作者の名を改め八文字屋より出る二の替り評判記を求めて参れ」、「紛らはしき芸品定ならぬ誠正真の八文字屋板の評判記を早/\持参いたされ候へ/\や」などと「発端」の登場人物に語らせる。八文字屋版の正当性、優位性をあからさまに役者評判記の読者に対して訴えるのである。

 人びとは役者評判記を読み、見物した芝居のことや役者の芸を思い出し、あるいは、見物の機会を逸した芝居のことや役者の活躍に思いを馳せた。冒頭のランキングを見ては、贔屓の役者の成長を実感し、一喜一憂する。役者評判記は、芝居見物の時間以外にも、劇場を離れたところでもなお、芝居好きの贔屓たちを芝居の世界に誘う魅力を持ち続けた出版物であった。

(注1)漆﨑まり「江戸版長唄正本における株板化の動き:中村座を事例として」(『日本研究』48集、2013.9)参照。
(注2)拙稿「役者評判記の享受─洒落本『祇園祭烑燈蔵』から見えるもの─」(『役者評判記の世界』、園田学園女子大学近松研究所、2009.1)参照。
(注3)井本農一「蕪村作俳文「顔見世」を論じ、訥子・梅幸に及ぶ」(『芭蕉と俳諧史の研究』、角川書店、1984)、早川聞多「蕪村の手紙(序論)」(『日本研究』35集、国際日本文化研究センター、2007.5)など参照。
(注4)荻田清「綿屋板役者評判記の出現」(『上方板歌舞伎関係一枚摺考』、清文堂出版、1999)参照。

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