西 耕生:「山ふミ」と「山ふシ」―『蜻蛉日記』中巻の引歌をめぐって―
道綱母の山寺籠り――夫兼家に宛てた手紙
平安中期の歌人、右大将藤原道綱母(?~995)が書いた『蜻蛉日記』上・中・下三巻は、天暦八年(954)夏、藤原兼家からの求婚に始まって二十一年間にわたる結婚生活を軸とした回想記である。一夫多妻の貴族社会にあって夫の愛情を独占できぬ嘆きと苦悩を媒介として、人生の意味に目覚める様子を綴る。
安和二年(969)から天禄二年(971)に至る三年間を記した中巻には、筆者のもとにかよってくる足も途絶えがちで家の前を素通りする、夫兼家の度重なる「前渡り」に不満を募らせた彼女が、石山に詣でたり山寺に籠って出家を決意したりといった記事がある。
天禄二年(971)六月のこと、夫からやはりしばらく身を遠ざけていようと思い決めた道綱母は、兼家宛の手紙を残して「四日、出で立つ」。以下、日記の原文に現代語訳を付して、その一端を辿ってみよう。
【日記原文】――ふみには「〈身をしかへねば〉とぞいふめれど、前渡りせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしき問はず語りにこそなりにけれ」とて、幼き人の「ひたや籠りならん消息聞こえに」とて物するに付けたり。「もし問はるるやうもあらば、『これは書き置きて、はやく物しぬ。追ひてなんまかるべき』とを物せよ」とぞ言ひ持たせたる。――
【現代語訳】手紙には「〈この身をかえないので〉と歌にこそ詠んでいるみたいだけれど、(あなたが私の家の前を)素通りあそばしたりしない別世界もあるかと思って、今日ね(山寺へ……)。こんな話もみっともない問わず語りになってしまったわ」と書いて、幼い我が子が「すっかり(山寺に)籠りっきりになろうとの挨拶を申し上げに(父の所へ)」と言って赴くのに(この手紙を)托した。「もし(母〔=私〕の様子を)問われるようなこともあるなら、『(母は)この手紙は書き置いて、ずっと前に出て行きました。(僕も)追っ付け参るつもりです』とおっしゃいよ」と、言い(含め)持たせた。
「身をしかへねば」――手紙冒頭の引用句
父親のもとへ山寺籠りの挨拶に行こうとする「幼き人」道綱にことづけて、手紙を届ける際、もし私の様子を訊ねられることもあるなら「母は早々に出立済みで、自分も後を追いかけます」と伝えなさいよ、と詳述している筆致から、淡い期待をにじませつつもきっぱりと夫の前から退こうとする決意のほどがうかがわれる。自らの窮地をほのめかす端的な修辞が、手紙の書き出しの一節――〈身をしかへねば〉にほかならない。「身をかふ」とは当時において、身を……と交換する、身を……の代償とする、転じて僧尼となる、の意であった。
この、手紙冒頭の〈身をしかへねば〉という一節は現在、道綱母と同時代の歌人で、あるいは日記執筆当時在世していたかと思われる藤原仲文(923~992)の家集に見える一首に基づいたものと考えられている。
通説では、「いづくへも身をしかへねば雲かかる山踏みしても問はれざりけり」(歌仙家集本仲文集)の第二句を引いて、「山踏みしても問はれざりけ」るあり方、即ち、度重なる「前渡り」で夫の夜離れを察知せざるをえぬ筆者が、住まいを離れ山寺籠りしても、尋ね来て声をかけてもらえぬような情況を暗示して、自らの窮状を訴えようとしたものと理解されている。
「山伏見てぞ問はれざりける」――冷泉家本仲文集の歌句
ところが、現在最善本と考えられている冷泉家時雨亭叢書本(『平安私家集 四』所収)仲文集に収める和歌本文に即して、この通説に異を唱えようとする注解が現われた。
まず注目すべきは、歌句の異同である。「いづくへも身をしかへねば雲かヽる山ふしみてぞとはれざりける」――第四句に「山ふしみてぞ」と作るところから、「山踏み」でなく「山臥し(山伏)」を詠んだ一首として、下句を、係り結びを有した「山伏見てぞ問はれざりける」と定めた上、「山伏になって修行しているのを見ても、わからずにお言葉をかけていただけなかったのですね」(私家集全釈叢書22『藤原仲文集全釈』風間書房、1998年)と通釈される。
加えて、この一首に付された詞書――「みたけさうじすとていし山にこもりたる、女くら人まいりあひて、とはず侍りければ」も、御嶽精進のため石山寺に籠っていたところ偶然来合わせた女蔵人(宮中奉仕の下級女房)が仲文に声をかけなかった、と解し、その女蔵人に詠みかけた仲文の歌だと解釈される。ゆえに、「かかる山伏」とは仲文自身を指す、という。
そうして、詞書とのつながりがよい「山踏み」でなく「山伏」と作る本文に拠れば、歌句「身をしかへねば」を引いた道綱母は、自らを「山伏」に擬えようとしたものと考えることとなり、かくして、彼女からこのような「手紙を受け取った兼家が、物忌中にもかかわらず、慌てて道綱母が籠った山寺を訪れて帰山をうながしている。この兼家の慌てぶりから考えると、道綱母の出家の可能性が感じさせる」冷泉家「本の本文の方が適切ではないだろうか」(以上、私家集全釈叢書22、四四頁語釈)と解説されるに至る。
「山ふシミてそ」と「山ふミシても」の本文転訛
『蜻蛉日記』中巻後文の記述をも視野に収めながら冷泉家本本文に即して解こうとされる立場は、確かに傾聴すべきものであろう。けれど、細かいことながら、下句の通釈に「山伏になって修行しているのを見ても……」と「も」を補なっている点は、係助詞「ぞ」を配した冷泉家本の歌句「山伏見てぞ」からいささか離れている憾みが遺る。却って、係助詞「も」を有して「山踏みしても」と作る歌仙家集本のような異文に牽かれてしまった印象を覚えるのである。
他方また、「いづくへも身をしかへねば」という初二句を「どこへも変身して出かけて行くことができない私ですから」とする通釈も、異文注記を伴いながら「いづこへも身をしわけねば」(「わけ」ノ右傍ニ「カへ」ト異文注記)と作る西本願寺本の歌句などの影響を受けているようで、「身をかふ」の意義からやや逸脱してしまい、腰の句以下への文脈もわかりづらくなっているように思われる。
ちなみに西本願寺本では、その詞書にも「みたけさうじすとていはやまにこもりたるに、女くら人まうであひて、とはずはべりければ」のごとく小異がある。和歌の第四句に関しては、むしろ、{ミ←→シ}および{毛←→そ}という相似する書記様態に照らして、伝写過程における錯誤によって「山ふミシても」と「山ふシミてそ」との間に生じた本文転訛を考慮すべき余地もあろう。
「山踏みしても問はれざりけり」――道綱母が思い描く将来
あらためて注意深く原文を辿れば、夫兼家に届けさせようとする手紙の中味を指して自ら「これもあやしき問はず語り」になってしまったと記したり、息子にことづける際に父兼家から「もし問はるるやうもあらば」と仮定して述べたり、このどちらにも係助詞「も」が添えられて、述語動詞「問ふ」が未然形で重出している点に注意される。彼女は、自分のもとを「問は(ず)」にいる兼家に「問は(るる)」ことを希求している、にもかかわらず、その実現がすこぶるむつかしい、と「も」認識した書きぶりなのである。
このような難局を打開すべく、せめて夫が「前渡りせ」「ぬ世界もやあるとて」山籠りを決意した。が、たとえ「山踏み」しても「山伏」ではない自らのありようを痛切に実感しているように思われる。かつて阿部秋生博士が慎重に説かれたごとく〝「山ぶみしても問はれざりける」といふ將來を自ら豫言してゐるやうないひざまだ、といつてゐるものと解釋することができないわけではない〟(『源氏物語研究序説』下・七一四頁)のである。日記の「もし問はるるやうもあらば」という順接の仮定条件句は、その趣意を翻せば、引歌の結句「問はれざりけり」に想到させる。こんなふうに、受身にとどまらず軽い尊敬の意をも含んだ助動詞「る」をまでも生かし踏まえているのは、幼い息子にとって父たる兼家のことを意識した筆者の、かすかな期待をこめた口ぶりが反映された結果なのでもあろう。
どこへ行くにも身を変えないので「山踏みしても問はれ」ぬような将来を思い描かざるをえぬ道綱母は、だから、此岸たる俗世に在る。「山伏」でない彼女は、ここではやはり、「山踏み」を詠みこんでいる歌のほうを念頭に置きながら夫兼家の気を引こうとしたのだ、と考えられる。
〔初出:2025年1月20日、隔月『インタビュー』第187号(編集・発行/ナレーション)。なお、ウェブ再掲に際して表記等改めるとともに、一部補訂した。〕