中根隆行:正岡子規の写生吟行―手帳と鉛筆を携えて―
1.読むことと書くこと
私たちにとって、文学が書き記された言葉へのアプローチだとしても、読むこととともに書くという営みを忘れてはいけない。書き手と読み手は相関するのだし、いったん書き手の側に立てば、ある出来事を言葉として書きとめることがいかに骨の折れる作業であるのかは、誰でもわかるはずである。
たとえば、こういうことである。ある事物をつぶさに表現して誰かに伝えようとする。だが、自分にとって大切なものごとであればあるほど、それを言葉でかたちにすることは難しい。凡百の表現を使っても言いたいことは少ししか伝わらない。この難題に敗北を繰り返しながらも果敢に挑戦しようとするのが物書きというものだろう。そのひとりが近代俳句を立ち上げた俳人であり、歌人でもあり、また文学者であった正岡子規である。
俳句を詠むだけでなく、子規のもとに寄せられた膨大な俳句の選句も彼の大切な仕事であった。「在日(あるひ) 夜にかけて俳句函の底を叩きて〔/〕三千の俳句を閲し柿二つ」(「俳句稿」『子規全集』第3巻、1970年)。彼は詠むだけでなく、古今の俳諧の分類に挑み、またこうやって読んだ。どれも並外れた仕事であり、言葉にまみれた人であった。そのなかでも革新的であったのは、手帳と鉛筆を持って戸外に出たことである。病いに臥せるというイメージが強いが、従来にはなかったスタイルで子規は旺盛に歩きまわり、俳句を書きつけたのだ。
2.1895年の石手寺吟行
ノートと筆記用具を持ち出して戸外で何かを書きとめること。こうした習慣が根づいたのはいつ頃からだろうか。これはこれで難問ではあるが、近代でいえば俳句の吟行、正岡子規の写生が思い浮かぶ。洋画家の中村不折から影響を受けたものとしてスケッチやデッサンの訳語として知られている。
実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり。(正岡子規「叙事文」『子規全集』第14巻、1976年)
そもそも写生という語は、唐末頃から使われた中国の絵画用語であり、手本の絵を忠実にまねて描く臨画に対して、事物を直接観察しながら描くことを意味した。日本でも古くから用例がみられる。もとより、明治になってアントニオ・フォンタネージから浅井忠、そして中村不折へと伝えられた西洋絵画の模写法と中国由来の写生とは異なるし、眼前にある事物を凝視して描くことと言われるが、精確にいえば子規の写生も時期によっても異なるし、概念や手法などひと筋縄ではいかない。ただ、写生によって俳句を詠むこと、それが実践的な筆法になったことは確かである。
ひとつのエピソードがある。1895(明治28)年のことである。4月10日から日清戦争に新聞「日本」の記者として従軍し、その帰途に船中で喀血した子規は、5月23日に県立神戸病院に入院、その後須磨保養院で療養して、8月25日に松山に帰郷する。その二日後、愛媛県尋常中学校の英語教師であった夏目金之助が下宿していた上野家の離れ―愚陀仏庵―に居候することになった。松山の俳人らが愚陀仏庵で療養する子規のもとに集まり、漱石ともども毎晩のように句会を催したという逸話はよく知られている。
それからひと月ほど経った9月20日午後のことが『散策集』に記されている。「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風そゞろに背を吹てあつからず 玉川町より郊外には出でける 見るもの皆心行くさまなり」(『子規全集』第13巻、1976年)。この日は珍しく快い気分なので碌堂を誘って郊外へ遠出しようというのである。碌堂とは柳原極堂の旧号、その折りの子規の言葉を、彼は次のように伝えている。
途上の俳趣を拾ひつゝ句作することは即ち吟行で、作句習練上大切なことである。松風会員はこれまで主として課題作句をやったもので即景写実の習練はまだ出来てゐない。僕も一昨年頃から漸く其妙味を知り、俳句の要諦は実に写生に在りと悟った位のことである。君よろしく手帳と鉛筆を用意して僕に従い来れといふ。(柳原極堂『友人子規』1943年)
この日から子規は吟行を始める。このとき柳原極堂とめざしたのは石手寺であった。愚陀仏庵から石手寺までは往復一里以上あり、療養中の身の上ではないかと諭す極堂に対して、心配には及ばぬと言って、上記のように述べたというのだ。松風会とは俳句結社であり、のちに極堂を中心にして俳誌『ほとゝぎす』の母胎となる。
伝統詩歌には題詠と吟行がある。掲出文中の課題作句は題詠であり、和歌の歴史とともにはじまっている。他方、吟行は遠出して詠むものであり、以前からあったものの、俳句では子規以降にさかんになる。ともあれ『友人子規』には、手帳と鉛筆を携えて戸外に出て、散歩がてら「即景写実の習練」つまり俳句の写生をする様子が綴られている。
石手川の堤上に上り、其北側の土手を遙か左手に石手寺の塔を望みつゝ東行しれば已に石手寺の近くである。土手を北へ下りて少し行けばすぐ一の門がある、「二の門は二町奥なり稲の花」といふ句が散策集に出てゐる。仁王門を入り山内を少時見廻つた後、大師堂の縁端に腰うちかけて其處に我々は休憩した。「杖によりて町を出づれば稲の花」の句を筆頭に、子規の句帳は此時已に三四十句録されてゐた。(『友人子規』)
私たちは普通、いくら写生とはいっても、俳句を詠むときは念入りに推敲するものだろうと思ってしまう。だが、子規が考える写生は違う。石手寺までの往路だけで「三四十句」とすれば、眼前の風景を写生するだけのはずだ。柳原極堂が伝える「途上の俳趣を拾ひつゝ句作すること」とは、まさに文字通りの意味であり、郊外を散策するなかで出合った俳味を、子規はつまみあげると同時に作句したのだ。
3.空想と写実
それからひと月ほど経ち、松山から東京に戻った正岡子規は、新聞「日本」で『俳諧大要』の連載を開始する。そのなかに「修学第一期」という章がある。初学者に対する指南書といった体裁で書かれている。冒頭には「俳句をものせんと思はゞ思ふまゝをものすべし〔。〕巧を求むる莫れ〔。〕拙を蔽ふ莫れ〔。〕他人に恥かしがる莫れ」とあり、続けて「俳句をものせんと思ひ立ちし其瞬間に半句にても一句にてもものし置くべし」と記されている。俳句をかたちにしようと思ったら、まずは余計なことを考えず、思ったことをそのまま作句せよ、そのときに半句でも一句でも書きとめておけというのである。子規と極堂の石手寺散策は、これを実践した写生吟行であったのだ。
ふたつだけ断っておこう。ただ写生を繰り返すばかりでは俳句にならないと子規は述べている。「面白くも感ぜざる山川草木を材料として幾千俳句をものしたりとて俳句になり得べくもあらず〔。〕山川草木の美を感じて而して後始めて山川草木を詠ずべし」(『俳諧大要』)。途上の俳趣を拾うとは、このように美を感じて立ちどまることであり、滅多矢鱈に作句することではない。いまそこにある事物を感じられなければ、俳趣をつかみそこなってしまう。
また、子規は決して写生さえしていればよい俳句ができると言っているわけではない。「自ら俳句をものする側に古今の俳句を読む事は最必要なり〔。〕且つものし且つ読む間には著き進歩を為す可し」(『俳諧大要』)。俳句を詠むとともに古今の俳句を読むこと。これも、いまの私たちにとってもよい助言となる。書きはするが読まない、読みはするが書かないというのは往々にしてあることではないか。それに対して子規は「多くものし多く読むうちにはおのづと標準の確立するに至らん」と述べる。多く詠み、多く読んではじめて、その人なりの標準が立ち上がってくるというのである。
それにしても、子規はなぜ写生にこだわったのか。それは、手帳と鉛筆を持ち出して外で出合った俳趣を書きつけるという行為が、はたして何を退けようとしたのかを考えると見えてくる。以下に挙げるのは、『俳諧大要』の「修学第二期」のなかの文章である。
俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり〔。〕初学の人概ね空想に倚るを常とす〔。〕空想尽くる時は写実に倚らざるべからず〔。〕写実には人事と天然とあり〔、〕偶然と故為とあり〔。〕人事の写実は難く天然の写実は易し〔。〕偶然の写実は材料少く〔、〕故為の写実は材料多し〔。〕故に写実の目的を以て天然の風光を探ること尤も俳句に適せり〔。〕(「俳諧大要」『子規全集』第4巻、1975年)
俳句には、空想に基づいた作句と写実に基づいた作句とがある。空想とは頭のなかでの想像、写実とは眼前の事物を描く写生、そう置き換えるとわかりやすい。初学者は、まず机上の想像に従って作句しがちである。けれども、想像というのは得てして陳腐であり、やがて種は尽きる。ゆえに初学者は写生に頼らざるを得ない。だが、写生といっても、十七字で人事を漏れなく詠むことは困難であり、自然を写生するとはいっても、偶然にまかせて作句するのも難しい。だから、写生をすると心に決め、手帳と鉛筆を持って外に出なさいということになる。退けられたのは空想であった。眼前にある事物をあるがままに写生せよと説いたのは、少しでもそこに想像が介入することを排したからである。
4.言葉で出来事を表現する
正岡子規の写生吟行は、言葉で出来事を表現する最前線である。俳句を想像から詠むこと、はたまた俳句を推敲することもそうであるには違いないが、写生にあって他にはない意義がある。それは、天然の風光を探りそこから俳趣を拾って写生すること、言葉になっていない事物を新たに言葉にして書きとめることであった。最晩年となる1902(明治35)年1月、子規は1894(明治27)年に東京根岸の郊外を散策していた頃のことを、次のように綴っている。
其時は何時でも一冊の手帳と一本の鉛筆とを携へて得るに随て俳句を書きつけた。写生的の妙味は此時に始めてわかつた様な心持がして毎日得る所の十句二十句位な獲物は平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた。(「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」『子規全集』第5巻、1976年)
写生というものをはじめて実感できたとき、子規はその俳句を「平凡な句」ではあるけれど「垢抜がした様に思ふ」と記している。子規は中村不折と知り合う以前から手帳と鉛筆を持って吟行を試みていた。1891(明治24)年の武蔵野行の頃からとされる。その翌年の高尾山行では「平凡な景、平凡な句であるけれども、斯ういふ景をつかまへて斯ういふ句にするといふ事がこれ迄は気の附かなかつた事であつた」(同上)と記されている。ここでも「平凡」の字が躍っている。
平凡ではあるけれどどこか垢抜けた句ができたと嬉しがり、また平凡な景色を前にして平凡な句を詠んだと驚いている。これはどういうことか。やがて写生と呼ぶことになる筆法をもって得た彼の喜びや発見は、眼前にある平凡な景色をつかまえて、それが平凡な十七字の言葉へと変わること自体にあった。事物をつかまえて言葉にすることが肝要なのであり、上手な俳句を詠むことが目的ではないのだ。
手帳と鉛筆を携えて写生に出向くこと。それは机や蔵書がある書斎から飛び出すことである。平凡ではない景色、たとえばそれが名所旧跡ならば、歌枕として詠まれた題材は詩歌や道行文のなかで数知れず表現されている。たとえばそれが牡丹ならば、蕪村を筆頭に牡丹にまつわる詩歌の堆積がある。それらは書籍を通して出合った言葉である。だが、書籍から得た知識や想像力から逃れられないにしても、いったん戸外に出て散策すれば、まだ言葉にまみれていない場所や事物は無尽蔵にあり、途上の俳趣―平凡な景色―との出合いに満ちている。
既に空が青くそこに在り、また、そうとして知っていたならば、再びそれを自身につぶやく必要はない。それではそのつぶやきは、一体誰に向けられたものなのか。私が私につぶやくのではない。私がつぶやきによぎられるのだ。つぶやきは「絶対」の自己確認であり、無私の私がその場所となる。(池田晶子『事象そのものへ!』1991年)
写生は実践的なものだから、最初から手帳と鉛筆を携えて戸外に出る。だが、途上の俳趣は、いつやってくるかもわからない。そうだとしたら、書きとめられた言葉は、掲出文にあるつぶやきのようなものである。いまここを紡ぐ、はたして子規はこう考えたのだろうか。自然の景色の俳趣を拾いあげて、いやそれは路上の風景でもよいのだが、まだ言葉で語られていない事物を書きとめること。そのとき俳人は、天然の風光と俳句となる言葉をつなぐ回路となる。