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張栄順:美しい多島海、瀬戸内海―人と文化を繫ぐ海と橋の物語―

1.人と文化を繫ぐ海と橋
 瀬戸内海沿岸で育った子供たちに海を描かせると、限りなく広がる海ではなく、あちこちに島がある海や島と島とを繫ぐ橋のある海を描くという。美しい海と島々、そしてその島々を繫ぐ橋の風景が日常的に見られる所が瀬戸内海である。西には九州、北東には本州、そして南は四国に囲まれている海域であり、地中海に喩える人も多い。海だけではなく、その沿岸地域を含めて瀬戸内または瀬戸内海と呼ばれている。
 この瀬戸内海は東西に450km、南北に15~55km程度で海としては細長く狭い海域である。平均的な深さも37.3メートルと浅い。大小の島々が点在する多島海であるというのが瀬戸内海の特徴である。その中には淡路島のように大きな島もあるし、無人島や周辺が何ミリしかない小さい島もあり、合わせて3000余にもなるという。

「亀老山展望公園」から眺めた瀬戸内海

 温暖な気候である瀬戸内海は、昔から穏やかで秀麗な風景として有名であったが、この海域の美しさを欧米の知識人たちもいち早く発見した。彼らは19世紀に瀬戸内海を訪れ、その景観を見て絶賛している。たとえば、ドイツの地理学者・探検家であり、シルクロードの命名者として知られるフェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは「広い区域にわたる優美な景色で、これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と述べており、 近代ツーリズムの祖ともいわれるトーマス・クックは「我々はあまりにも豊かな自然の恵み、次々に移り変わって終わることを知らない景観の美しさに呆然としてしまった」と感嘆している。
 瀬戸内海は、昔から西日本の大動脈と言われるほど海運が発達し、かつては大陸の外国文化が入ってくる交流の道でもあった。遣隋使や遣唐使がこの海の道を通して大陸へと赴き、近世には朝鮮通信使の船が瀬戸内海に立ち寄りながら江戸へと向った。また、幕末にはシーボルトやオランダ商館長などが長島の出島から瀬戸内海を経て江戸を目指した。瀬戸内海は九州や京都、江戸をつなぐ海の道であり、中国や朝鮮、西洋と交流する道でもあったのだ。現在も国内外の航路として重要な役割を担っている。

2. しまなみ海道の周辺の島々の歴史と文化
 瀬戸内海には、本州と四国をつなぐ三つの巨大な橋があり、一番最後に完成した西瀬戸自動車道は、愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ橋で、瀬戸内しまなみ海道という愛称で呼ばれている。この道路には歩行者や自転車、そして原動機付自転車(125cc以下)のための専用道路が併用されており、徒歩もしくは自転車でも瀬戸内海の風景を満喫できる。日本で最初の海峡を横断できる自転車道路でもある。周辺には宿泊施設やレストラン、休憩所があり、宿泊をしながらサイクリングを楽しむことができる。この自転車道路はアメリカのCNN旅行情報サイトで「世界7大自転車コースの中の一つ」で選ばれたこともあり、2014年と2016年には国際サイクリング大会も開催されるなど、年間17万人以上の人々が訪れてくる。

しまなみ海道の自転車道路

 しまなみ海道は6つの島を結ぶ7本の橋を指す総称で、6つの島以外にも大小の島々があちこちに連なっている。その島々は芸予諸島と呼ばれている。瀬戸内海の島々は今も造船業や貿易航路あるいは観光地として有名だが、これは昔から造船業や交易港として栄えたことに起因する。17世紀後半に幕府の命を受けた商人の河村瑞賢が江戸を中心に東の巡回航路と西の巡回航路を整備する。それによって元々水運として活用されていた瀬戸内海は、大阪や北海道、東北地方や山口などをつなぐ物資運送の大動脈となった。それに伴って、その航路に隣接する地域は強い風を避けたり、潮流を待つ船らが入港する港町として発展した。18世紀以降は造船業も盛行し、船舶間の仲介商業も活発になった。
 芸子諸島の中でしまなみ海道が通る6つの島は、最近観光地としても注目されている。愛媛県の今治市から来島海峡大橋を渡ると大島である。瀬戸内海の来島海峡の潮流でも知られ、日本三大急潮流に数えられる。大島は昔から「沖乗り(船の技術がある程度発展してから通るようになった船道)」という主要航路として発展してきた港である。その他にも瀬戸内海を舞台に活動していた村上海賊の歴史と生活を知ることができる「村上海賊ミュージアム」がある。
 伯方島は塩の名産地として有名で、大三島は大山祇神社のある「神の島」としてよく知られている。この神社は山の神、海の神、戦闘の神を祀った神社として歴代の朝廷や武将たちが訪れた場所であり、現在も大勢の参拝客が訪れている。生口島は広島県の尾道市にあり、因島とともに以前から港町として発展してきた。

しまなみ海道(伯方・大島大橋)

 因島には、島の北側に「安芸地乗り(船の技術がまだ発達されてない時期にできた陸地に近い船道)」という主要航路があった。瀬戸内海の難所として知られている来島海峡を避けるために、この島の近くに航路が作られ、中世には村上海賊の拠点であり、近世は海運業、近代以降は造船業や船舶業で栄えた。向島も周辺の島とともに造船業が発達した。温暖な気候を活用し、みかん栽培や農業が行われており、漁業も活発である。
 また、これらの島以外にも、芸予諸島には江戸時代に朝鮮通信使が立ち寄ったところとして有名な島や港もある。下蒲刈島(広島県呉市)と鞆の浦(広島県福山市)である。朝鮮通信使は朝鮮国王が江戸幕府に派遣した使節団である。文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱と呼ぶ)で途切れた国交を回復した1605年から1811年に至るまで約200年の間に12回、朝鮮通信使が日本に派遣されている。初期の朝鮮通信使の任務は、将軍就任の祝賀や外交問題の協議などであったが、交流が継続される中で朝鮮儒学などを伝えたり、文化交流を担ったりという方がより大きくなっていった。約400人から500人で構成されている朝鮮通信使一行は、釜山から下関に着いてから瀬戸内海を通って大阪に上陸し、その後は陸地の東海道を経て江戸に入った。
 通信使であった申維翰の『海遊録』によれば、瀬戸内海を通るとき通信使らは安芸国の下蒲刈町では広島藩による盛大な接待を受けたという。1711年に江戸に到着した通信使に各地のことを聞いたところ「安芸最高の料理」と絶賛されたという逸話も伝わっている。現在、下蒲刈島の松濤園には、この逸話に基づいて建てられた朝鮮通信使資料館御馳走一番館がある。そこには通信使の中で正史、副史、従事館上位の3人が食べた三種類のスープ料理と15種類の料理を再現した三汁十五菜の膳の模型がある。また、通信使一行は備後国の鞆の浦に到着して宿所である福禅寺に泊まったが、その周辺の風景についても感想を残している。1711年に通信使の従事館の李邦彦が宿所の福善寺の対潮楼から眺めた瀬戸内海の風景を見て「日東第一形勝」(日本最高の風景)と絶賛したという有名な話が残っている。
 瀬戸内海が主要航路として発達するに従って、その周辺地域と島々の経済や文化も盛んになっていった。朝鮮通信使を迎えた折りの異文化交流もまた、この地域の歴史の一頁として後世に伝えられている。これ以外にも瀬戸内の諸地域には、朝鮮通信使関連の遺物や遺跡が多く残っており、現在も多くの観光客が訪れる場所となっている。

3. 海の上の記憶―村上海賊とその末裔
 瀬戸内海や芸予諸島の歴史について話をする時、この海域を中心に活動した海賊の歴史を欠かすことはできない。この海域は多島海であるだけでなく、潮流が速く、非常に複雑な水路を形成しており、造船技術と潮流の特徴をよく知る人々がこの海域の支配権を担っていた。海賊といえば、海の無法者で他人の船に勝手に乗り込み、強奪したりする者たちというイメージが一般的であるが、論者によっては、海賊が、自分たちの管轄する海域を通過する船から通過料(関立と呼ばれる)を要求したり、道案内をして案内料を受け取ったりする人々のことだと指摘する論者もいる。
 芸予諸島で活躍した海賊の中で最も有名なのは、村上海賊である。14-15世紀に台頭した彼らは警護、水運、交易などに携わりながら、小規模な海賊たちの中心となって、次第にその勢力を伸ばして行ったという。村上海賊は、瀬戸内海の能島、因島、来島の三島を拠点に活動したので、三島村上氏と呼ばれていた。彼らは父村上武吉から分家した兄弟であり、海上警護、水運、交易などを通してこの海域の中心的な海賊として勢力を拡大する。
 ところが、戦国時代になって、豊臣秀吉が海賊禁止令(1588年)を下すと、海賊たちは芸予諸島を離れ、それぞれ権力者の家臣団に編入された。そして、文禄・慶長の役のときには豊臣水軍となって戦った。これを契機として村上海賊は村上水軍という名称で呼ばれた。このように海賊は、時代によっては大名の水軍として活動したり、時には強大な組織となって中心勢力の存立をも脅かすこともあったという。その意味では、海賊という概念を一元的に定義することは難しいかもしれない。
 大島にある村上海賊ミュージアムには、文禄・慶長の役と丙子の乱の時に、能島村上家の元吉とその弟である景親が毛利輝元の水軍として出兵した際のことを伝える資料がある。元吉と景親は出兵して朝鮮水軍と戦って功績をあげるが、それが称えられ毛利将軍から褒美を与えられる。その古文書が展示されている。その一方で豊臣秀吉の水軍として戦争に参加した来島の村上通総や兄の得居通幸は二人とも朝鮮水軍との海戦で戦死している。

村上海賊ミュージアム

 村上海賊ミュージアムの受付の隣には、瀬戸内海や村上海賊に関する参考図書や資料を所蔵する小さな閲覧室のようなコーナーがある。古文書や遺物ではないが、雑誌『全国海賊伝』(2015年)に掲載された興津圧蔵の文章が紹介されていた。朝鮮出兵というタイトルで、文禄·慶長の役の際、豊臣軍が漢城(ソウル)まで進出し、戦いの内容や豊臣水軍の活躍を紹介する一方、豊臣の武将たちが李舜臣将軍率いる朝鮮水軍の攻撃により惨敗を喫した内容についても詳しく紹介している。その末尾は「双方が実に激しい打撃を受けたことが分かる。その意味で、戦争の流れだけを見ると、両水軍の実力がほぼ同じだったと言えるが、それぞれの線に対峙した将軍の顔を見る限り、やはりその勝敗の行方は、水軍や装備の質よりも軍勢を率いる将軍の力量に大きく依存していたと見るのが賢明だ」と述べられており、李舜臣将軍の力量を評価している。
 江戸時代になると、野島村上水軍は萩藩(山口県)の船舶管理の首領として、朝鮮通信使の海道案内の任務を引き受けることになる。博物館には、村上水軍の道案内を受ける朝鮮通信使の絵「朝鮮通信使上関来航図」や、朝鮮通信使が来日する際に海上警護を依頼した毛利輝元が村上水軍に送った文書「萩藩家家臣連署書状」も展示されており、当時の状況を知ることができる。

「朝鮮通信使上関来航図」(超専寺所蔵)

「萩藩家家臣連署書状」(以上、村上海賊ミュージアム提供)

 この文書には、往路は下関から下蒲刈市まで、そして復路は関から下関まで、それぞれ警護の任務を遂行するように命じられているのが記録されている。こうした資料を通じて、貿易と交流の場であり、時には戦争の場でもあった瀬戸内海の歴史が窺える。
 村上海賊ミュージアムは、先祖が遺したものを長い間大切にしてきた村上水軍の子孫と地域文化研究に心血を注いだ郷土史家たちの努力によって造られ、2004年に村上水軍博物館としてオープンした。瀬戸内海沿岸には村上という姓を持つ人が多く住んでいるが、彼らは自分たちを村上海賊の末裔であると考えているという。博物館の基盤となった資料を提供したのもその末裔の一人とされる村上公一(1932-2003)である。彼は幼い頃から先祖の歴史に関心を持ち、村上水軍の研究に没頭したという。先祖は野島村上だが、この家は江戸時代以降、兄の元吉流と弟の景親流の二流に分かれる。弟の家系が彼の直系に当たり、博物館所蔵の遺物や資料の相当数が影親流の村上家に伝わってきたものである。その他にも展示室には、朝鮮から伝わった大砲を日本式の砲術用に改造した「虎杖砲」や朝鮮で作られた「白磁皿」など、朝鮮と関連性のある遺物も展示されている。
 
おわりに
 博物館の近くにあるカレイ山展望公園には、青い瀬戸内海と野島が見え、その周辺を静かに流れる潮流が眼前に広がる。この風景をじっと見下ろしていると、この海域の歴史が映像のように鮮明に浮かび上がってくるように感じる。現在、四国の人々は瀬戸内海に建設された3本の橋を利用して本州と行き来している。その一方で、海路(船舶)を利用した往来もまた、昔はもちろん今も活発である。その長い歴史からすれば、橋を利用した交通はここ数十年のことに過ぎない。村上水軍の歴史も、瀬戸内海が海上交通を中心に発展してきた海域であったことを改めて思い起こさせる。
 陸地から陸地にせよ、海から陸地にせよ、瀬戸内海における交通と交流の歴史は多種多様であった。現在、四国では、海に開かれたこの地域の歴史やその記憶を歴史的文化的な遺産として継承・発展させようとする活動が活発に行われている。それは、四国に住む人々の生活のなかの大切な記憶となっているだけでなく、地域のアイデンティティの基盤を支えてもいるのだ。今後もまた瀬戸内海とその周辺地域が文化交流の道としてその魅力を継承していくことを期待したい。

*本稿は、韓国で出版された雑誌『BOON』(RHK日本文化コンテンツ研究所、2016年、韓国語)に載録された「ヒーリングと癒しの空間 四国⑥―美しい多島海、瀬戸内海―」を一部改稿し日本語に翻訳したものである。2016年の取材の際にお世話になった今治市村上水軍博物館(当時)の皆様に改めて心から感謝申し上げる。

主要参考文献
今治市村上海賊ミュージアム:https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/(2021年1月10日閲覧)
今治市村上海賊ミュージアム編『海のスペシャリスト―小説『村上海賊の娘』にみる“海賊働き”とは―』、2014年
今治市村上海賊ミュージアム編『村上海賊と天下人―小説『村上海賊の娘』とその時代―』、2015年
NHKドキュメンタリー「ろーかる直送便 しこく戦後70年―四国を変えた“夢の架け橋”―」(2015年12月25日放送)
『戦国海賊伝―威風堂々!乱世の荒波に帆を上げた海の武士団!!―』笠倉出版社、2015年 等

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