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西耕生:「まなび」と「山踏み」―ヘチをめぐる文学語誌―

「うひ山ぶみ」と「初登山」
 『うひ山ぶみ』は、本居宣長が『古事記伝』44巻を完成した1798 (寛政10) 年、かねてからの門弟の懇望に応え、初学者向けに「ものまなび」の方法を平明に説いた入門書である。30年余にも及ぶ注釈作業を成し遂げた69歳の初冬、彼はその奥に一首の和歌を付している。「いかならんうひ山ぶみのあさ衣浅きすそ野のしるべばかりも」――「うひ山ぶみ」すなわち初めて学問に志そうとする際、めざすべき峰を望む「浅き裾野」のささやかな道「しるべ」程度にもなろうか、と謙譲の心を詠んでいる。
 手習を登山にたとえるのは江戸期の常套であった。日本語をポルトガル語で説明した長崎版『日葡辞書』(1603年刊)の「Tozan.(トゥザン) Yamani noboru.(山に登る) 子どもが読み書きを習いに坊主の寺へ行くこと」という解説や、「初心之児童登山之時」と始まる『初登山手習教訓書』(1705年刊)、また『江戸時代語辞典』に掲げる「古歌にも、手ならひは坂に車をおすごとく由断をすればあとへもどるそ」(山東京伝『絵兄弟』1795年)といった用例など。宣長の歌の「山ぶみ」はしたがって「登山」の和訓というわけである。
 室町期にさかのぼると、「山踏みは山行事を云也」(今治市河野美術館蔵『西行聞書』)、「山踏みは山を踏むなり。山踏みといふ事、源氏にただ一所あり」(『正徹物語』)といった語釈も見えるが、「山踏み」を単なる山歩きと理解してはならない。平安前期の宇多天皇が譲位後まもなく出家して「ところどころに山ふみし給ておこなひ給けり」(愛媛大学図書館蔵鈴鹿本『大和物語』二段)あるいは「法皇初めて御髪おろし給て山踏みし給」、「法皇遠き所に山踏みし給」(以上、『後撰和歌集』詞書)などと作るように、専ら出家の仏道修行を意味した。

「へち」を踏み、山を踏み
 ところで「遍路」の語源は、表記の様々をとおして「へち」と想定される。ヘチは、僧が心身を鍛錬する修行「斗藪(とそう)」を行う場所を言い、四国に限らず、熊野古道の名にのこる紀伊半島はじめ、列島各地の水際に臨んだ険しい地勢を表した。特に「大峰葛木ヲ通リ辺地ヲ踏ム」(『新猿楽記』)、「磯のへち踏む山伏」(『為忠家後度百首』)のようにヘチを「踏む」と作る平安後期の例から、ヘチと山の対比にも注意される。宇多法皇が「切尾湊」より熊野神社へ赴く「道中、海ニ泛(うか)ビ山ニ傍(そ)ヒ、其ノ路甚ダ難シ」(『扶桑略記』延喜7年10月17日条)との消息や、やはり譲位後出家した清和天皇が「名山仏壠(はか)」を「歴覧」すべく「諸有名之処」を「経廻礼仏」(『三代実録』元慶4年12月4日条)したとの記録も伝わる。
 ここに空海が「少年ノ日、好ンデ山水ヲ渉覧」(『性霊集』巻九)したという措辞など思い合わせれば、「山踏み」とはつまり水際のヘチ踏む難行を含んだ「山林斗藪」に対応する語なのであった。
 だから「踏む」を「行く」「歩く」と解くのはやや穏当を欠き、「山踏みは山を踏むなり」と説くよりほかはない。現在『源氏物語』に2例を数える「山踏み」もこうした見地から顧みる余地がある。

「山踏み」の本質――通俗化を越えて
 かくして学問と「山踏み」に共通する素地に思い至る。初学者が究めようとする知の体系の奥深さと、僧侶が行う山林斗藪の厳しさと。かつて峰入り(駆け入り)の修行を終え山から出たばかりの山伏の身に霊力がみなぎっているさまを含意した「駆け出」が、山から出たてという点に重心が移るようになり語義変化した経路も興味深い。対をなす「駆け入り」はほぼ忘れ去られ、未熟な新米をいう「駆け出し」の形だけが今も行われている。「山踏み」の通俗化や変質に伴い、古語「へち」から現在の「遍路」へとその語義が転じたように。が、川端康成『雪国』には「自身に対する真面目さ」を「呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをする」島村という男の様子が描かれていて、こんなところにも「山踏み」の本質が観取されるのである。
 さて、1792 (寛政4) 年12月20日、『古事記』中巻の『伝』を書き終えた宣長は「白雪のふる事ふみのしるべして年積もりぬる跡は見えけり」と述懐した。『古事記』(ふる事ふみ)への注解(しるべ)を通して彼の目に映った「跡」はいかなる道程であったろうか。

〔初出:平成30年1月1日「へんろ」第406号(発行所/伊予鉄不動産株式会社)〕

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