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田中尚子:『蔗軒日録』小考―季弘大叔の学問事情―

季弘大叔と漢籍
 『蔗軒日録』は室町中期の禅僧、季弘大叔(1421-1487)の記した日記である。文明16(1484)年4月1日から18年12月30日までの、彼が堺の海会寺に居住していた晩年期の記録で、応仁の乱後の状況や禅林の動向にあわせて、堺に関する記事が多くなるのもそういった事情によるものである。そして禅林の動向という観点からすれば、この時代の五山僧の例に漏れず、季弘大叔も学問活動に積極的に取り組んでいたのであって、たとえば、文明16年11月22日条「為諸子談論吾(語)」、同年12月3日条「講朱注侖吾(論語)」とあるように、朱注に基づく論語の講義を手がけ、また、同11日には、『大学』の講義を開始し(「為紹上主講大学」)、12日、13日と続けて14日に完結させる(「大学講了」)など、経書関連の講義を頻繁に行っていたことが確認できる。
 経書への関心から派生して、史書にも目を向けていく流れがこの当時の五山僧の学問の在り方として想定されるわけだが、それこそ季弘大叔とも交流のあった太極(1421-1478?)が参加した等持院の竺雲等連(1383-1471)による『漢書』講義(『碧山日録』長禄3〈1459〉年5月3日~5月28日)や、文明9(1477)年に桃源瑞仙(1430-1489)の『史記抄』編纂といった動き(注1)に連なる形で、『蔗軒日録』内にも中国史書に関する記述は存在し、桃源瑞仙との関わりで言うと、文明18(1486)年3月14日条に「桃源講史記」という一節が見える。この一節からは『史記抄』完成後も桃源瑞仙が『史記』学に携わっていたこと、そしてこの時期、五山内で中国史書、二十一史に目が向けられていたことが窺えるのである。

『蔗軒日録』内の二十一史
 『蔗軒日録』内で言及される二十一史関連叙述としては、先の『史記』にあわせて、『元史』(文明16年4月2日条)と『新唐書』(文明18年4月7日条)が確認できる。前者では「見元史子昂(趙孟頫)・虞集・晋卿(黄溍)・掲曼碩(掲傒斯)数人列伝、虞集開二室、一曰陶庵、一曰邵庵、溍作孟子弟子伝二巻」と、数名分の列伝を読んだことが記される。趙孟頫は列伝59巻に、残り3名は列伝68巻に虞集、掲傒斯、黄溍の並びで連続して載るが、それらの列伝を読んだという記録に止めず、虞集が庵を2つ作っていたことや、黄溍が作成した『孟子弟子列伝』に言及するなど、記述内で自分が関心を持った箇所についても書き留めている。1人だけ収載巻が異なる趙孟頫に関しては、文明16年5月23日条にもその名が見え、彼が書写した『六喩経』を献上された中国元の禅僧、明本中峰(1263- 1323)が長頌を記したとのことで その長頌を畠山修羅(注2)の供養のために誦したとする。『元史』で彼の列伝に目を通していたのも、この供養に連動していた可能性が考えられるだろうか。そして後者の『新唐書』に関しては、「壽侍者至、話移時、新唐書全部四十冊、壽公送而何之、李白伝引見、白二孫女作民妻云々」と、大安寺の仙圃長壽から全40冊が送られたこと、そしてその中の列伝第127「文芸中」の李白伝(注3)に目を通したことへの言及となっている。『元史』、『新唐書』ともに相当な分量を有するものの、日記内で言及した箇所はこのようにきわめて限定的なものとなっており、ここから季弘大叔の関心がどこにあったかが読み取れるように思われる。すなわち、趙孟頫は書画家として名を馳せており、また虞集・掲傒斯は元詩四大家に数えられ(注4)、そして李白はいわずもがな詩仙と称される人物なのであって、二十一史に目を通すとはいえど、季弘大叔が注目していたのは歴史的事項よりも文学的側面だったのではなかったかとの見方ができるのである。
 たしかに『碧山日録』などと比べると、中国史書への言及それ自体少ないようにも感じるわけだが、もちろんそこでは当該日記が2年分しかないことも考慮せねばなるまい。寧ろ、わずか三史であっても、五山全体から見れば、中国史書への関心が高まっていく過程を示したものとして注目に値するのだろう。事実、季弘大叔も中国の歴史や文化に無関心だったという話ではない。というのも、中国事情に精通する金子西(注5)と頻繁に対面し、彼が語る明国の風俗、習慣に関する記述を丹念に書き留めており、その記述からは史書を読む以上の学びがあったように感じられるのだ。つまり、人から見聞きして学ぶことが季弘大叔にとっては肝要だったのである。

人を介しての学び
 金子西が当該日記で初めて登場するのは文明18年1月12日条で、「癸卯、入大明、去冬帰泉南……話及唐裡之事」とあるように、明から戻ってきた金子西との対話の中で中国の話に及んだという。1月28日条には金子西が明の文人の書翰を持ってきたことが記され、以降も明の文化、風俗に関する話を聞く機会が頻繁に持たれており(3月23日、4月8日、26日、5月26日、6月3日、19日、24日、7月22日、8月24日、9月2日、20日)、いかに金子西が語る事柄に季弘大叔が興味を持っていたかが伝わってこよう。それはこの時期、季弘大叔が堺に住し、かの地で明をよく知る金子西と交流が持てる状況にあったからこそ実現した、書物経由ではない、人を介した学びだったのである。
 金子西の他にも季弘大叔が何度も対面していた人物がいる。琵琶法師の城菊・宗住らである。彼らとの親交に関しては川本慎自氏の言及があるところで(注6)、季弘大叔が彼らから聞いていたのは「平家物語に関する話、とくに源平合戦期に登場する人々の逸話」であって、先の金子西も含めた問題として、日記原本を見るに、「城菊・宗住や金子西の話を書き留めた部分には、びっしりと振り仮名が付されて」いるのがわかり、それが「室町期の禅僧は意外にも日本の歴史には疎」かったがためと氏は述べる。
 未知の事柄を知りたいという探究心があったからこそ、城菊や宗住らとの対話を契機に、『保元物語』、『平家物語』、『太平記』等軍記に関連する記述を種々残していくことになる。楠木正成を毘沙門天の再来とするところから、「三木一草」や「天勿冗勾践、時非無范蠡」といった『太平記』の文言を語釈的に掘り下げていくかと思えば(文明18年3月11日条)、兄弟が左右の大将についた先例四例をたどり、日本の歴史を通史的に把握しようとするなど(文明18年4月27日条)、様々なアプローチをもって学びを深めていくのである。また、「宝(保)元四巻・平治六巻・平家六巻・承久、謂之四部合戦之合戦書也」と、今でも意識される「四部合戦状」の括りや(文明17年2月7日条)、天草版『平家物語』の序の一節、「叡山の住侶、文才に名高き玄恵法印の制作平家物語」とも呼応した、『平家物語』成立に玄恵法印が関与しているとする説、「平家凡有七本、世之所伝者玄恵法印所改作焉」(文明17年3月7日条)が示されるなど、軍記受容の様相を考える上で注目に値する文言が残されもする。軍記研究の面からも、『蔗軒日録』の存在は看過できないのである。
 このように、彼の学びは人を介して得たものが多かったのであって、そういった五山僧の学問事情の一齣が当該時期の日記を読むことで浮かび上がってくるのである。尚、この日記が書かれたのは冒頭に述べた通り、彼の晩年にあたる。その日記内に記録された桃源瑞仙の『史記』講義も、これまたその晩年に行われたものとなる。晩年まで学問と向き合い、それを後世に残していこうとする五山僧たちの学問への強い思いも、日記から浮かび上がってくるものの1つと言えるだろう。

〔注〕
(注1)室町期の『漢書』、『史記』受容の様相については、拙著『室町の学問と知の継承―移行期における正統への志向』(勉誠出版 2017)参照。
(注2)畠山義就の長男の通称。文明15年に16歳で死去したという。
(注3)そこで言及された「白二孫女作民妻」という一節に関しては、たしかに当該列伝内に「惟二孫女嫁為民妻」と、類似した文言が確認できる。
(注4)虞集・黄溍・掲傒斯、柳貫とともに「儒林四傑」とも称される。
(注5)文明18年1月12日条によれば、建仁寺天潤庵の宋悦が還俗し、金子西を名乗ったとのことである。
(注6)川本慎自「高精細カラー画像で中世人の「声」を聞く―『蔗軒日録』の世界から」(八木書店コラムhttps://company.books-yagi.co.jp/archives/7293 2021.5.10)。

〔附記〕本研究はJSPS科研費 23K00277「室町期の学者による中国史書研究の様相―二十一史享受に窺える自国の歴史認識の変遷―」の助成を受けたものである。

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